第 1 号 2004年11月3日発行
発行人 末吉哲郎
 発行所 図書館サポートフォーラム

刊行にあたって

末吉哲郎

 図書館サポートフォーラムは図書館OBの集まりである。折にふれ、図書館在職中の思い出やかなえたかった夢を各人がもたれていることと思う。
 この文集では、できるだけ肩ひじ張らず、近況や図書館に関すること、後輩への期待などを会員に書いてもらうことにした。過激な意見やこれに対する反論があってもよい。フォーラム(広場)として活用いただきたい。年2回刊行の予定、活発な投稿をお願いする。

目 次

俳 句

高山京子

煉瓦棟 囲ふさつきの 花小さし

雨上がり さつき輝く 昼下がり

濠端の なびく柳の 若葉かな

     平成十六年七月二十二日
⇒目次へ

忘れえぬ図書館人―1―秋岡悟郎(1895/12/20〜1982/10/20)先輩

石山洋

 秋山悟郎さんはわが国初の図書館員専門養成機関「文部省図書館員教習所」の最初の卒業生16人のお一人で、第一期生の内お会いできた唯一の方だった。初めてお目にかかったのもその教習所の後身「図書館職員養成所」であった。その折、私は養成所の学生、秋岡さんは当時深川図書館長で養成所同窓会会長でもあった。特別講義として一時間話された。秋岡さんの耳は少し変形していて、それを指差しながら、耳が悪いが地獄耳と称され、館界の大事なニュースは何でも受信と言われた。ユーモアを失わず信念に満ちた方で、養成所昇格運動の先頭に立たれました。秋岡さんは熊本県ご出身、大学で建築学専攻を期していたが、1913(大正2)年県立八代中学卒業前に父君を亡くされ進学を断念し、母校の高等小学校代用職員となった。正教員資格取得を目指し教育学と音楽の検定試験受検準備に入ったところ、難聴は音楽に不向きと知り教職を諦め、1919年郡教育会明治文庫司書に転じた。直後、熊本県立図書館開催図書館事業講習を受講、佐野友三郎・伊東平蔵両先生の薫陶を得た。1922年上京、図書館員教習所に学ぶ。教習所卒業後は東京市立日比谷図書館に勤務、関東震災後の1924年主任として復興建築の京橋図書館を本邦最初の完全公開書架制図書館に仕立てて発足させ、その英断を高く評価された。1931(昭和6)年同館長を命じられて、その経営に努められた。ご本人によると、郷里の明治文庫のときから公開書架制を採用した由で当然の表情でした。尤も、得意だったに違いなく、講演要旨「開架法の理論と実際」を『図書館雑誌』に載せており、その前に企画段階(1924年)で、同窓会誌に「開架式図書館の経営について」を執筆された。同時に実施した下足廃止のほうも彼の新鮮さを示すものでした。隔世の感ですが、当時は新しかったのです。33年京橋図書館閲覧者会を組織し、その下部に法律研究会を設け、高文受検者の勉学を助成、30余名の合格者を出したことも自慢でした。1939年市立八王子図書館長、42年同駿河台図書館長を歴任、43年日比谷図書館管理掛長となって都立全館の面倒を見、日本図書館協会常任理事(40〜45年)も兼ね、戦時統制下、全国図書館への新刊図書優先配給を日本出版配給会社と交渉して実現に奮闘された。終戦間近の44年には空席の日比谷図書館長の事務代理を務め、東京誌料など貴重書の疎開、更に民間重要集書買い上げ・疎開事業を開始、中川邦造氏を館長に迎えるのに尽力した。48年都立深川図書館長に転出、52年ご退職。自宅に学校図書館研究所を開設、秋岡さんの最も興味の中心だった図書館施設・備品の設計・改良に当たる。秋岡式鋼鉄書架とVisible Card Systemとしてのカード簿が当節有名でした。ご高説を何度も拝聴したものです。日本図書館協会施.設委員会では、1956〜63年委員長を務め、各地司書講習会でも主に図書館施設論を講じられた。なお同協会から49〜59年参与、59〜82年は顧問に推挙されている。1956年財団法人日本社会教育協会から全日本社会教育功労者表彰も受けた。1965年古稀のお祝いの際、森博氏は「先生はズレていない」と語り、一部の若い人から時代遅れ視されるのを、むしろ若者のほうがズレていることが多いと戒めた。晩年、『秋岡悟郎著作集』全20巻を企画されたが、膨大量予定の回顧録原稿が整う前に亡くなられ、逝去後に清水正三氏ら編集により「図書館理念と実践の軌跡」と副題され上記開架論から図書館教育論、さては便所政策、終戦前後の業務日誌まで1冊で刊行された。

参考文献 『秋岡悟郎著作集』日本図書館協会 1988 360p/『加藤宗厚・秋岡悟郎両先生古稀記念誌』加藤宗厚・秋岡悟郎両先生古稀記念会編刊 196 46p/細谷重義「図書館界の大先輩 秋岡悟郎先生を悼む」図書館雑誌77(1)1983 49p
⇒目次へ

人食いの説

末吉哲郎

 大森に住んでいるせいか大森貝塚のことは気になる。かのE・S・モースは明治10年に来日して間もなく車窓から大森駅付近で貝塚を発見、発掘調査を行ない、明治12年には英文と和文でその調査報告書を刊行している。この結果が大森貝塚で日本の考古学発祥を記念するものとして有名である。
 ところでこの調査報告書が、大森貝塚の特色として、人骨が発見されたことにより日本にも食人の風習があったことを記述しているのをご存知だろうか。報告書では大森貝塚の特徴として土器、土版、骨器、動物遺体の各節で他の国の貝塚遺物と比較して図示を交えながら紹介しているが、これらと併設して「食人の風習」の節を設けている。
 これによると発掘された人骨は、他のイノシシやシカ等の獣骨と混在しており、髄を得たり土器で煮るため、適当な大きさに割られていた。そして埋葬された骨と異なり、部位も全くばらばらで一体分にまとまったものはなかった。これらのことから、モースは食人の結果であると断定して「大森貝塚の最も興味ある発見の一つは、そこでみられた食人風習の証拠である。これは、日本に人喰い人種がいたことを初めてしめす資料である。」としている。しかし一方でニューイングランドやフロリダの人骨の発見は、北米インディアンが人肉を食べたという記録があり当然予期されていたが、日本では古文書はじめ食人風習の記録は一切なく、先住民のアイヌも温厚で人を殺す術も知られていないと述べており、漂流者の可能性も示唆している。
 この食人風習が大森貝塚の特色であることを、ことあるごとく吹聴するのだが、少なくとも小生の交際範囲ではだれ一人として本気にしない。最近、モースがかつて館長をつとめたアメリカのセーラム・ピーボディ博物館の学芸員が来日し、講演会でモースの日本および日本人に対する愛着が強く、日本の美術品や庶民の生活文化に係る器具類を巾広く収集し、ピーボディ博物館の展示品の大きな柱になっていることを紹介したが、これを機にモースの大森貝塚の報告書のことを思い出し、近くの公共図書館からモース氏の業績や貝塚関係の図書を借出して再読したが、食人風習についての批判的論考はなかった。
 小生の住まいは大森貝塚から1キロ位の距離。人食い人種がいてもおかしくない距離である。そういえばこの辺りには、くらやみ坂とか地獄谷という物騒な地名があり、またこの辺りの馬込文士村では往年、無頼の文士が連日酒を食らい、人を食った発言をしていた。ひょっとすると先住食人人種の子孫が今でもこの辺をカッポしているのかも知れない。
 入新井図書館でお借りした前述の岩波文庫本、あろうことか紛失してしまい、補償のため神保町に出向き新本を手に入れ、図書館に出向いたのであるが、その本は返却されているとのこと。だれかが拾って図書館に返して下さったらしい。大森には人食い人種だけでなく、このように立派な人もいることも併せて報告しておきたい。
⇒目次へ

戦場で遭わなかった2人の図書館人

田中梓

 国立国会図書館で主に国際協力業務に携わっており、また日本図書館協会で国際交流委員を長らくつとめていた関係上、私は多くの外国の図書館人と知り合う機会に恵まれた。そのうちとくに印象の深い2人について、先の大戦の経験などをからめ合わせて思い出をつづってみたい。
 まずウイリアム・ウェルシュ氏。彼は1980年代、ダニエル・ブースチン館長時代の米国議会図書館(L・C)で副館長として館長を支え、IFLAや国立図書館長会議(CDNL)でアメリカ図書館界を代表して八面六臂の活躍をした人で、IFLA大会や数回の来日のたびに必ず会う人であった。あるとき雑談で、彼が太平洋戦争中、アラスカの米海軍航空隊の基地におり、北太平洋方面の日本軍に対する防衛を担当していたことを知った。2年間陸軍にいた私がもし北千島かアリューシャン方面の部隊に配属されていたら、ウェルシュ大尉の率いるアメリカ航空隊の攻撃を受けていたかもしれなかった。彼は10数年前にLCを退職し、コーンフレークスで有名なケロッグ財団の研究所長になったが、その後の消息はきいていない。
 ケネス・ガードナー氏は大英博物館(British Museum)の東洋資料部長などをつとめた図書館人であったが、また日本研究者でもあった。彼とは英国や日本で何度も会ったが、最後に会ったのは1995年阪神大震災直後の2月、大阪府が日本研究の外国人に授与する「山片蟠桃賞」を受賞したときであった。しかし、その2ヵ月後ロンドンで急逝したことを夫人からの手紙で知った。 
 彼はロンドン大学在学中に応召、インパール作戦の日本軍と死闘を続けていた英印軍の情報将校として、インド東部の司令部につとめていたという。あるとき彼が「田中さんとビルマで戦争しなくてよかったですね」としみじみ語っていたのを思い出す。
 学徒出陣で軍隊にはとられたが、終戦まで敵の上陸阻止のための沿岸防衛部隊の一員として内地にとどまり、遠くの激戦地にとばされてウェルシュ大尉やガードナー中尉の率いる米英軍と一戦交えることのなかったのは幸いであった。
⇒目次へ

けやき文庫

岡田恵子

 「欅文庫でーす。本の無料貸し出しをしておりまーす。」
 毎週金曜日の午後、関東中央病院の病棟の廊下には、こんな声が響き渡る。入院患者のための図書貸出巡回サービスである。ボランティアが図書を乗せたワゴンを押して回る。私がこの仕事に参加して早二か月半、毎週月曜か金曜に訪れる。6〜7年続けているベテランは患者さんとの接し方がとても上手、学ぶことがたくさんある。話しかけ方によって貸出数が違ってくるのには驚いた。
 月曜は巡回サービスがなく、文庫を開けて来訪者を待つ。この小さな図書室はしっかりとした木製の書棚が左右にあり、真ん中におそろいの木の閲覧テーブルが置かれている。これらの設備は病院の元医師だった宮地純樹先生が平成六年に亡くなられたとき、ご遺族から寄贈されたものだそうだ。
 病院側は部屋を提供しているだけで、この図書室の運営には金銭的援助をしていない。文具や、ささやかな図書購入費は世田谷ボランティア協会の寄付だというし、サービスはすべてボランティアの手による。総勢十数名が来られるときだけ奉仕する。図書は患者さん達からの寄贈本を中心に三千冊ぐらいあるだろうか。図書カードもなく、管理はおおざっぱなので正確な数字はわからない。
 先日は、ある患者さんに十数冊の本のリストを手渡された。この中の本があったら届けて欲しいと。私ははたと困った。本は男女の作家別になっているが、めちゃめちゃにおかれている。どうやって探すのだ。ベテランにきくと、あっという間に二点がでてきた。あとの本はありませんと。ほとんどの蔵書が頭に入っているのだ。
 四人も来訪者があると手狭になるスペースであるが、それでもこのところ一日六十冊前後の貸し出しがある。現代日本人作家のエッセイ、探偵小説などが大部分、漫画もあり、気晴らしのための本が中心だ。
 この娯楽書中心のミニ公共図書館のような存在は、ボランティアで支えることができる。しかし、知り合いの専門家は、21世紀の患者図書館は、生と死に関する文献情報を収集、提供する専門図書館であるべきと進言してくれた。そのためには司書を雇うべきと。欧米では数十年前から多数の患者図書館司書が誕生していると。
 さて、現状ではとてもそんなことは考えられない。貸出利用が多ければそれでよいと誰もが思っている。元司書の私に、将来の理想の図書館に橋渡しできる何かの役目が担えるであろうか。まだ皆目わからない。
⇒目次へ

田山花袋と貸本屋、図書館、書店

植村達男

 『蒲団』、『田舎教師』等で知られ、自然主義文学や私小説の祖というべき田山花袋であるが、最近その作品が読まれることは少なくなっている。そんな中、『蒲団』を読み替えた小説『FUTON』(講談社)という作品が、一九六四年生まれの作家中島京子の手により発表され話題を呼んだ。田山花袋は一八七一年の生まれであるから、年齢的には百年近い後の世代の女性により『蒲団』は打ち直されたという訳だ。

 私自身、田山花袋については、何十年もその存在を忘れていた作家であった。ところが、一九九八年に講談社文芸文庫の一冊として刊行された『東京の三十年』を読んでから、田山花袋という作家に関心を持ち始めた。『東京の三十年』は、田山花袋の自分史と重なる。この作品は一九一七年(大正六年)の発行。七歳のとき、西南戦争で父を失った田山花袋(本名:録弥)は、一八八一年(明治十四年)、群馬県館林から上京する。十一歳だった。貧しくとも向学心に燃える田山花袋は、読書に励む。また、働きながら英語学校にも通う。神田小川町にあった「いろは屋」という貸し本屋に通う。貸本屋からは「我楽多文庫」「国民の友」等の雑誌を借りた。尾崎紅葉の作品を貸本屋で借りた雑誌で読み、「こういうものなら書けぬことはない」と思ったようだ。また、父の戦友の息子野島金八郎の家に行き、そこの蔵書を読んだ。ユーゴー、デュマ、ディッケンズ等の作品を借りる。
 一八九〇年(明治二十三年)、田山花袋は上野の図書館に通い始める。二〇歳の頃だ。牛込から美術学校の裏手の図書館までテクテク歩く。週に二三回は通ったようだ。五銭出すと、二階の特別閲覧室に入れる。大きなガラス窓、その窓から見える新緑、白いカーテン。青年花袋は、本を読んだり空想に耽ったりしていた。室内は水を打ったように静か。時々スリッパを履いた監視が見回りに来る。この時期は、田山花袋にとってインプットの時代。「新桜川」を「都の花」誌に連載して、初めての稿料を貰ったのは、二年後のことである。
 田山花袋が、日本橋丸善の二階にある洋書売場を好んだ。そこでモーパッサンの短編集の英訳本(一〇〜二〇冊)と出会ったのが一九〇三年(明治三十六年)のこと。このときは代金が不足し、勤務していた博文館の上司に頼んで十円を前借した。

 『蒲団』のはじめの方に「東京市電開通と女学生への悪影響」を書いた部分がある。そこを読むと、モーパッサンの作品「小作人」(Le Fermier)にも同じような叙述(鉄道が敷かれたために、田舎の素朴な娘たちがパリに惹きつけられ娼婦になってしまう)があったことを思い出す。「小作人」は、私が大学生一年の秋、第二外国語のフランス語の授業で読んだもの。一九六〇年のことだ。この共通点は、後年たまたま気づいたものだ。ちなみに、「小作人」が書かれたのが一八八六年、「蒲団」が発表されたのは一九〇七年であるから、年代的にこの推測は成り立つ。ただし、証拠はない。
⇒目次へ

「図書館をたのしむ会・二宮」の活動

桜井史郎

 「図書館をたのしむ会・二宮」は、1996年に発足した「二宮の新しい図書館を考える会」から、新館(ホール等を含む多目的館)のオープンを機に現在の名称に変更して丸4年を経過しています。
 会員は約100名です。
 諸活動については、後述の行政当局にお願いした「図書館に対する要望書」等のとおりですが、要望書提出後の活動としては、会報NO16「図書館をたのしむ会・二宮からのおたより」の発行、山花郁子さん(児童文学者)の講演会、相模人形芝居下中座の第2回公演等の計画が予定されています。
 以下に、「図書館に対する要望書」・「学校図書館に対する要望書」を掲載します。

   『図書館に対する要望書』

                                2004年8月20日
   町長   古澤吉郎 様
   教育長  小林信昭 様
   図書館長 池田茂男 様
                              図書館をたのしむ会・二宮 黒川克己

 二宮町図書館は、昨年の利用者が33万9千人、貸出冊数は37万6千冊となり、町の情報拠点として、なくてはならない施設となっております。町民の望むサービスのために、日々努力してくださっている町当局と図書館職員の皆様のご尽力に感謝しております。
 「図書館をたのしむ会・二宮」は、今年度、子どもの本の専門家広瀬恒子さんや絵本作家得田之久さんを招いた講演会・先進の愛知県田原市立中央図書館、静岡県吉田町立図書館の見学・槐真史さんによる子どものための自然観察会・児童コーナーのための手作りグループ「ピノキオ」による布絵本や、大型絵本バックの製作・子どもたちのための語りの勉強会など、様々な活動をしてまいりました。平素より、私どもの活動にご理解、ご協力をいただきありがとうございます。
 さて、図書館をとりまく状況は、時代を反映し、常に変化してきています。
 社会環境の変化・情報通信技術の急速な進展・少子化高齢化社会の到来・様々な障害を持った方への対応・子どもの読書推進活動の重要性の再認識など・・・。今、図書館には、社会の変化を常に感じながら、しかも地域の実状に即したきめ細やかなサービスが求められています。
 町の情報拠点としての図書館の果たす役割がますます不可欠とされる今日、二宮町図書館の充実のために、次のことを要望いたします。

1 図書館に専門・専任館長を置いて下さい。
これまで、新図書館開館のための準備期間から現在まで、歴代館長は、住民の意見も取り入れ、様々な面でご尽力いただいてきました。
また、専門のアドバイザー石井敬士氏のアドバイスにより、運営についての多くの指針が与えられ、町民のサービスにも反映している事を実感しています。
しかし、これからの図書館は高度情報化時代へ対応(電子資料など図書館が扱う資料の拡大や情報通信技術を活用したサービス)・行政の中での図書館の役割の充実・住民に対する産業活動等の活性化のための資料提供・学校との協力・連携など、様々な課題に対応することが求められています。
このような時代が求める課題に優先順位をつけて対応しつつ、二宮の実状に即したきめの細やかなサービスを行うためには、常時図書館にいる専門・専任館長の存在が不可欠です。

2 児童コーナーに、子どもの本に精通した職員を常時配置して下さい。
大人は、子どもの感受性や発想を柔らかに育てるために、子どもの心を解放するために、子ども達ひとり一人が好きなことに出会い自己肯定感を持つために、子どもたちに様々な本と出会わせたい願いがあります。
そのために、児童コーナーの運営には大きな期待が求められています。
児童コーナーには、子どもの本に関して専門性を持ち、子どもたちや、子育て中の保護者の方を支援したり、学校の先生や学校司書と連携をとったり、ボランティアを支援したりすることができる職員が常時いることが求められています。
現在二宮町図書館の児童コーナーは、居心地の良いスペースとなっていますが、子どもの年齢や要望に応じた最適な本を差し出す人、関連する本を紹介できる人が常時いないために、子どもたちや保護者の方の本に関する相談に充分対応できず、せっかくの子どものための蔵書が有効に生かされていないのが現状です。
児童コーナーに、常時職員の配置を求めます。

3 サービスの向上につながる職員の研修を実施して下さい。
これからの時代に求められる新しい図書館の運営のためには、職員・非常勤職員の研修が不可欠です。広域的・総合的な住民のニーズに応えるために、専門的なレファレンスを行うために、研修を拡大し、より専門性を高める事が必要です。
それが、住民への的確なサービスにつながると期待しています。

4 町民に常に新しい情報を提供するために資料費を維持して下さい。
今年度の資料費は約1千6百万円です。これは町村図書館として低い額ではないはずなので、町当局のご努力に感謝していますが、あらゆる世代に常に新しい情報を提供するためには、毎年資料費が必要です。
子どもたちの未来のために・住民それぞれの豊かな生活のために・住民の産業活動や様々な活動等の支援のために・行政への資料の充実のために・・・・ 
資料費は現状を維持して下さい。
なお回答は文書にてお願いいたします。


   『学校図書館に対する要望書』

                                 2004年8月20日
   町長   古澤吉郎 様
   教育長  小林信昭 様
   図書館長 池田茂男 様
                               図書館をたのしむ会・二宮 黒川克己
                               二宮町学校図書ボランティア 国分伸代
                               にのみやおはなし会    加藤与志江

「学校図書館に人を」と切望し活動してきた私たちにとって、2002(平成14)年度より3年間、緊急雇用対策事業の予算で「学校図書館指導員」が配置されたことは何よりも喜ばしく、二宮町の教育行政に心より感謝申し上げます。そのことにより、各学校図書館では、次のようなことが進みました。
・ 蔵書の整備が進み、パソコンも導入され、二宮町図書館と各学校間を結ぶオンライン化の準
 備が整いました。
・ テーマにそった本の展示や季節に応じた展示がされ、明るい居心地の良い空間となり、子ど
 もたちの利用も増えました。
・ 指導員による「図書館だより」が発行されるようになり、本や学校図書館に関心を持つ子ども
 たちが少しずつ増えてきました。
・ 指導員と学校図書ボランティアが協力、連携して作業を進めることにより、より速く、わかりや
 すく、子どもたちに資料を提供できるようになりました。
  
 人が配置されたことにより、学校図書館が子どもたちの学びの場・集いの場に変化し、少しずつではありますが、本来の図書館の機能を発揮するようになりました。
 緊急雇用対策措置は本年度をもって終了すると聞いておりますが、昨年度の議会で町長から「…今後については町でも最大限の考慮をして単独でも考えていかねばならない。必要なものは必要として考えていかねばならない」との答弁があり、とても嬉しく思っております。この実績をさらに発展継続させるために、来年度以降は町費で学校司書を配置していただくのが急務と考えます。
 また、2004年2月、文化審議会の答申「これからの時代に求められる国語力について」において、国語力を育成するためには読書がかかせないものとし、学校における読書推進のための具体的な取り組みとして、学校図書館の計画的な整備がその第一番目に取り上げられています。しかし、現在の学校図書館の資料は子どもたちや教職員の要求に答えるにはまだまだ不十分です。
 以上の理由により、次のことを要望いたします。

1 各学校図書館に、子どもと本の架け橋になってくれる、専門性と経験のある学校司書
  を1校1名配置してください。
2 学校図書館資料費を増額してください。

 なお、回答は文書にてお願いいたします
⇒目次へ

図書館への思いはつのるばかり

近江哲史

     1
昨年十一月に『図書館に行ってくるよ』(日外アソシエーツ)という本を出してもらったら、この本に関する書評や紹介がなんと十一点(二〇〇四年十月現在)も関係新聞雑誌に掲載された。それを列挙すれば次のようなことになる。
1 押木和子 『図書館に行ってくるよ』を読んで(朝の読書実践研究会『はるか』二〇〇三年十二月)
2 江口知秀 (資料紹介)『図書館に行ってくるよ』(『専門図書館』二〇〇三年二〇三号)
3 紹介『図書館に行ってくるよ』(『定年時代』多摩・武蔵野版 平成十六年一月号)
4 植村達男 現実を直視した内容――マニュアルでありながら「読み物」(『週刊読書人』平成十六年一月三十日)
5 紹介 『図書館に行ってくるよ』本好き、調べものから施策・運動も提案(『月刊総務』〇四年二月号)
6 山岸清太郎 (紹介)定年退職後は図書館で言いたい放題!?(『散歩の名人』二〇〇四年四月号)
7 紹介 シルバー世代の図書館利用術(『出版ニュース』二〇〇四年三月上旬号)
8 梶葉子 退職後、図書館でライフワークの実現を――自由な小さな図書館があちこちにあれば楽しくなる(『図書新聞』二〇〇四年三月十三日号)
9 西尾肇 (紹介)『図書館に行ってくるよ』(『出版ニュース』二〇〇四年四月上旬号)
 高橋真太郎 (図書館員の本棚) 『図書館に行ってくるよ』(『図書館雑誌』九八巻六号)
 青木更吉 (紹介) 『図書館に行ってくるよ』(流山市立格物館友の会『におどり』七二号 二〇〇四年五月)
 というわけだが、有難かったのはこのすべてが好意的なコメントであったことだ。しかしその論調の多くは、わけ知らずの図書館の素人が、よくも勝手なことを喋っているなあ、という半ばあきれ顔の雰囲気であったことも私には可笑しくも、また専門家諸氏には恐れ多いことでもあった。
この二、三年は定年退職後の自営業務も激減してヒマができ、私は地元を中心に、しょっちゅう図書館通いをしている。そうすると、いろいろ図書館のいいところ・悪いところがドンドン見えて来る。利用者はこう思っているのに、どうして図書館はこうしてくれないのだろうということが毎日のように気づき、イライラしてくる。そんな鬱憤晴らしの話をいっぱい書き込んだので、図書館の人たちはギョッとしたらしい。しかし、図書館は私にとってまことに貴重な存在だ。図書館に対しての愛情と感謝の気持はいつも忘れていない。上記評者の一人西尾氏も、「私たち図書館員にとっても教わることが多い。……そしてあとがきの殺し文句『多くの市民が健全な精神を保ちつつ生きていくための大きな支えとなるのは、図書館様、あなたの存在なのです。よろしくお願いします』という一文は、期待と不安が込められた市民からの励ましとして、肝に銘じたい」とまで言って頂いた。
 実は、この本はサブタイトルで「シニア世代のライフワーク探し」となっており、こちらの方にも半分のウエイトがあるのだが、この視点から取上げられた批評は少なかった。
 なお、別に小さな講演依頼のようなことを数件受けた。まず尊敬する浦安市立図書館からの慫慂ということで、同市の図書館友の会からのご依頼で記念講演「図書館と私」という話をさせて頂いた。(二〇〇四年五月二十二日)読売新聞からは「活字文化特集 我が街の図書館」という取材があった。(同年七月二十八日付け記事)この後、群馬県吾妻郡図書館からのご依頼で、群馬県図書館大会でパネルディスカッションのパネラーを承り、さらに「AAネット浦安」からもお声が掛かっている。むしろこういう方では行動的な部分でこの本が読まれたように思えるのである。
 なお、最近になって、読書推進運動協議会が出している「敬老の日 読書のすすめ」というチラシにこの拙著が推薦、記載されていることを知った。秋にはこういう本を読んだらどうですか、というわけだが、この推薦図書二十六点の中で拙著は、掲載欄で、今をときめく日野原重明先生のものと五木寛之の『元気』の本に挿まれているという光栄に浴した。

          2
 さてこのように自分の考えていることというのは、いったん本などの形でまとめてみると、すぐに次の展開がみられるものである。私もこの後、次々に新しい考えが浮かんできた。まずは「図書館力」という言葉である。これは図書館を使いこなす力という意味で、例の「老人力」というような消極的な表現ではない。まず図書館に入って、最小限度、本でも読んでみようかという気になって館内の様々なところを見歩き、いささかでも図書館の雰囲気を味わってみたという人があれば、この人は図書館力「初級」である。いきつけの館を相当程度、自在に使いこなせるようになって「中級」、調査・読書の内容によって国立国会図書館その他あらゆる図書館を使えるようになると「上級」利用者である。図書館の使い方を他人に指南し、また図書館に関わる市民運動の指導者にも至れば、これが有段者となる。(こんな話を浦安で申上げた。)
 この他、図書館に関する理想論や夢みたいなものが続々と私の頭の中に去来するので、これらを書き散りばめたものを、前著の続編として頂けないだろうかと目下出版社の担当者に読んで貰っているところだ。荒唐無稽な図書館論にまたまた識者の顰蹙を買うかもしれないが、ちょっと専門家あるいは一般利用者のご意見も聞いてみたいと思うのである。

          3
 さて私の話はまだまだ止らない。私は流山市図書館ボランティアグループ「栞」というのに所属しているのだが、ここでの話を披露しておきたいのである。創立八年目、会員約百名(男性およそ三割程度)という規模だが、活動は総務・企画・広報(この三つが企業でいえば管理部門に当たる)・整理・お話・美化(これらが企業でいえば、現業とか生産現場という部門に当たる)という六部門に分かれ、会員はいずれかの部署に所属して行動している。整理というのは、配架とか本の整理、お話というのは子どもたちに本の読み聞かせをするもの、美化というのは図書館の外を花で美しく飾ろうというものである。かくのごとく、活動内容は至極分かりやすいし、図書館の基幹業務にはまったく関わらない。だから「やれる時に、やれる人が」随時仕事をしていく、という形である。会員はこういう仲間の協同の作業の中で、むしろ交流というか、おしゃべりの機会を持ち、楽しくやっていきましょうというのが本音の一部であった。
 私は二年あまり前(〇二年春)に「栞」に入会し、企画部会に所属しているが、だんだん慣れてくると、奇妙なことに気づいた。ごくある小部分ではあるが、会員は図書館を怖がっているのである。それは行政的な意味ではあるが。
 私は当初から整理・お話・美化だけでは物足りないという気がしていた。もっと図書館との交流を深め、利用者が何を考えているか、どういうことを図書館に望んでいるかを館側に組織的に伝えるのも立派なボランティアの一つではないか、と思っていた。そこで、そういうことをこの組織の幹部にも事あるごとに話してもみた。しかし(館の意向をシッカリ認識?している)「代表」(会長職に当たる)さんは、「皆さん今のままでいいと言ってますから」とさりげなく私の意見など握りつぶしてしまった。(〇二年十月頃)
 そういえば私の入会時にも、先輩会員から「余計なことは言わない方がいいですよ」とアドバイスされたことがあったのである。「物言えば唇寒しボランティア」とは、奇妙なことと思っていたが、私はガマンがならず、さらに「栞」グループの中で発言を試みた。それは今のボランティア組織を「友の会」組織に改組したらどうかということである。本が大好きである、図書館にもっと親しみたい、図書分類のことなどもっと教えてほしい、読書会などにも参加したい、というような人はきっとたくさんいるはずである。しかし、今のボランティアというのではちょっと腰が引ける、余裕ができて、状況ももっと分かった後ならそういうことでもやれるかもしれないが、という人は多いのではないか、と思っての発言であった。それに関連するのだが、流山市を文化的に特色づけるために「読書に親しむ街 流山市」というアピールを私は考え、これの具体的な要綱も詳細に考えて、ペーパーにもした。これを支えるのも図書館友の会である。これらを包含する五ヵ年計画案も作成したが、また黙殺されてしまった。(〇三年六月頃)
 次は栞の企画部会の仕事として、公式の図書館との交流会を企画したが、これも館側から事前にチェックが入った。栞側はどういうことを質問するのか、という。まず図書館運営の基本理念から、その他細かい話を云々と話すと、キッとした態度でやられてしまった。公共図書館に個別の理念などはない、決められた通りに運営するのである、と。なるほど、そこで思い出したのは、つい前にも誰か、「栞は圧力団体なのか」と館側に怒られたという話である。理念とか方針という言葉は禁句であるようだ。すこしでも意見や希望を言い出そうとするものなら、パーンとやられるらしい。思いもよらないことであった。その他、ここには書けないことも二、三あった。私は、わが方にも非力な団体であることを認識した。もう何も言わずに、貝になって済まそうか、という日々であった。

          4
 ここまでで終わっていたら私は本稿を書かなかっただろう。しかし、幸いなことに状況は好転した。前図書館長は定年退職し、新しくM館長が着任した。一方、栞グループの執行部も年度替りということもあって、全面交替したのである。これがともに〇四年四〜五月のこと。私はこの後の展開にようやく愁眉を開くに至った。私たちが企画した茨城県立図書館(新装成って開館、内外ともにまことに立派なものである)と茨城県近代美術館見学のバスツアーにも、M館長は愛想よく同行、祝儀まで下さるという心配りであった。それと別に私たちは、今度はそろそろ私たちの「意見」も言っていいのではないかという雰囲気を感じたので、こういうことを提議した。図書館は今、的確な案内地図が不十分で、市内各館・分館へたどり着けないという苦情がある、また分館では、建物そのものに表示がない所もある、さらに館内での配置表示が不十分であるというものだ。このためボランティアグループで、これらをすべてチェックし、改善提案をしようというのである。話をしてみると、肯定的な状況だったので、このうちまず「図書館利用案内作成プロジェクト」を立ち上げ、版下にまで我々でつくり、これを図書館側に提供したのである。全 ページの詳細かつかわいいイラスト入りのものである。かくて館への現実的な協力の実は挙がって、「栞」側も皆気をよくしている。
 ところで、次の問題が出てきた。近年の各図書館開館時間延長の趨勢から、当館も利用者からの夜間開館希望が強くなり、八時くらいまでは毎日ということになった。困ったのはタダでさえ予算削減の時期に館員配置・人件費をどうするかということになった。そこで、ボランティアとしての栞グループに助けてくれませんか、と声が掛かったのである。この件もいろいろ経過があったが、結局は個人的に労力提供となり、一方非常勤職員を公募もして、同じカウンターに職員・臨時職員・ボランティアという混成部隊で運営されることになった。この件は十月からの実施なので実績はまだご報告ができない。
 そしてさらに図書館側の希望は、非営利の市民団体で館の運営自体を受託してくれることはできないか、ということまでチラリと打診してきたのである。評論家の森まゆみさんなどは、かねて理想の図書館運営は本好きなNPOが受けて運営することだ、と言っていたと思うし、私もそう思う。すると、我々がこれから一〜二年くらいで、図書館経営のノウハウを勉強し、館長や管理職などがやれる人の五〜十人は養成しなければならない。窓口業務などは別としてこうした経営管理のノウハウをどうやって蓄積するか、そういうことについて、図書館専門家のご指導・アドバイスがほしい。本当はこれを言いたいための本稿であったのである。本誌読者各位で、それにはこうしたらよかろう、ということがありましたら、是非教えて下さい。無謀なことはやめておけと言われそうな気もするが、市から館運営を全面的に受託し、理想的な図書館運営をやってみたいとも考えているのである。現在流山市は人口十五万人。財政はかなり厳しく、このための施策が刻々と市行政では打たれている状況です。(これについての懇望は、私の独断で申していることで、流山市立図書館や図書館ボランティアグループ「栞」の、機関としての要請ではありませんので、念のため。)
⇒目次へ

昔の名前で出ています―『情報サロンとしての図書館』のその後―

戸田光昭

 1993年7月、姫路獨協大学一般教育部に勤務していた私は、勁草書房から『情報サロンとしての図書館』を出版した。この本は、『情報サロンとしての専門図書館』(農林水産技術会議、1992年)などが発端となっており、当時、住友海上火災保保険株式会社情報センター長であった植村達男さんから、「情報サロン」という視点は面白いと評価していただき、この書名で出版することを薦められたのである。
 表紙カバーの帯には、植村達男さんの他に、当時、エポックリサーチ社長をしておられた三輪眞木子さんからも推薦文をいただいた。それぞれの推薦文はつぎのようなものである。

 人々が集い、情報を交換・創造・発信するコミュニケーションの「場」としての「情報サロン」のイメージが、具体例と共に生き生きと描かれている。電子図書館機能を兼ね備えた知的で戦略的な「情報サロン」を、図書館だけでなく博物館や研究室の理想像と位置づける本書は、図書館員や研究者のみならず文化施設のプランナーにとっても、未来を探るための必読書である。
(エポックリサーチ社長 三輪眞木子)

 重くて暗いイメージがただよいがちな図書館を、「サロン」という明るい切り口で解明した好著。「サロン」というコンセプトは将来の図書館の展望を語る上での、重要な要素の一つであろう。本書はこの分野での先駆的文献である。
(住友海上情報センター長 植村達男)

 この本の主眼点は、(1)情報サロンとしての図書館機能を具体的に描いたこと(その内容は後述)、および(2)公共図書館、専門図書館(企業図書館)、大学の個人研究室など広範囲の図書館機能を対象としていること、さらに、(3)将来の情報サロンは人間の五感すべてを対象とした総合情報センターでなければならないと主張していることである。
では、情報サロンとしての具体的な図書館機能とは何であろうか。つぎのような項目をあげることができよう。
(1)情報センターの役割(過去の情報から新しい情報までを豊富に探索できる)
(2)サロンでは人が中心(18世紀のサロンにおける女主人に相当する専門家)
(3)客間と社交の場(利用者を対象とした気配りと集まり)
(4)外部への開放と支援(後援会、友の会、賛助会員、協議会などの組織化)
(5)時間と空間を超えた役割(当時はパソコン通信、現在はインターネット)
(6)ネットワーク(図書館サービスを支える従来型のネットワークと現代の電子情報ネットワークの結合)

 このように、先駆的な内容の出版物であったが、発行以来10年余を過ぎて、内容はますます古くなってきた。特に本書は具体例を豊富に紹介しているため、現在では廃止されたり、消滅したりしてしまった施設、設備、制度なども多くなってきた。
 2003年に出版されて評判になった近江哲史さんの『図書館に行ってくるよ』(日外アソシエーツ)でも紹介していただいたのであるが、その紹介の中の多くの施設が利用できなくなっていた。現代のようにスピードの速い時代にあっては、書物も消耗品にならざるを得ないのであろうか。大変残念なことである。
 また、2004年9月には、山中湖情報創造館(村立の図書館)の蔵書に加えていただき、関連のブログで紹介していただいた。その文章の中に「会社の司書」ということばを初めて読んだという意味の記述があり、アメリカでは情報収集を司書の仕事としているとあった。しかし、この部分で私が言いたかったのは、専門職制度の進んだアメリカでも、日本人が情報活動に全社的な見方をしていると同じように、経営者も含めた「全従業員が競争的情報収集に従事することを期待されている」という箇所であった。
 昔の名前で出ることは、悪い気はしないが、あまりほめられたことでもない。ここに紹介したように、その内容の古さの故に、悪い影響が出てくることもあるからである。
 『情報サロンとしての図書館』を絶版にして、これに換わる新しい本を出版しなければならないと、気があせっているところである。
(2004年10月4日)
⇒目次へ

図書館の出番です!

山崎 久道(中央大学)

 大学の教員になって、早くも7年半が過ぎた。もはや、新米教員ですと言って、自分の能力不足、経験不足の言い訳にできないのが、何とも辛い今日この頃である。
 最近の大学では、色々不思議なことがある。そのひとつは、学生による「授業評価」である。これは、一コマの授業の最後の回に、学生がその科目の授業の進め方や内容について、無記名のアンケートを書くというものである。大学の教員としては、学生にとって「よい授業」を提供する義務はもちろんある。いつも、自分の授業の質を高めるよう気を配っていなければならないのは当然だ。それは、企業が少しでも良い製品やサービスを世に送り出そうとしていることと変わりがない。
 しかし、「よい授業」であるかどうかを100%、学生が決めて良いものであろうか。そもそも「評価」などというものは、より高い専門性や識見を持つ者が、そうでない者の位置づけを行うことなのではないか。第一、学生が好む授業だけをベストとしていたら、少し難しい学問や深遠な真理を説く講義などは、大学のカリキュラムから排除されてしまう。
 というのも、こういった授業は理解するのが困難だし、第一、すぐ役に立つものではない。しかし、この手の授業は、世の中に出て、様々なことにぶつかったとき、「そういえば」ということで思い出すことが多い。即効性はないが、10年後に効く薬のようなものである。(確かに、こんな薬は売れないだろうなあ・・・)
 しかし、ある意味でもっとも大学らしい講義は、上記のようなものかも知れない。こうした講義がすべて姿を消してしまったら、大学というのは、実に平板な、感激のない教育機関になってしまうだろう。事前に決めたテキストから、少しも逸脱すること無く、確実に内容を覚えてゆくことを求めるような授業に、多くの学生諸君は、安心感を覚えるものらしい。
 しかし、大学教員の本当の役目は、学生を無理やり一つの方向に引っ張ってゆくのではなく、かれら一人一人がどのような方向に伸びようとしているのかを見極めて、その芽にそっと水をかけてやることなのではないだろうか。このことは、音楽界の帝王といわれた名指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンが、指揮の極意について聞かれたとき、「オーケストラをドライヴするな、キャリーしろ」(岩城宏之『フィルハーモニーの風景』岩波新書)と答えたという逸話と、似たところがある。(これは、オーケストラの指揮を乗馬にたとえたもので、ドライヴとは、オーケストラの一挙手一投足を、すべて指揮者の考えたとおりに引っ張って行くことであり、キャリーとは、楽員の自発性にまかせて演奏させながら、それでいて指揮者の考えが、楽員全員に浸透して方向付けされている状況である。)
 しかし、そのためには、学生が自ら情報を集め、自ら思索し、自ら知的生産に携わる環境が必要だ。そのための施設、あるいはシステムとして、図書館ほどふさわしいものは無い。いつだったか、図書館情報学とは無縁の分野の大学院生に、書名や著者名からでなく、分類や件名からの情報探索法を伝授したら、まるで不思議なものでも見るような顔をされた。こんなことで、本当に先行研究の調査などできるのだろうかと、不安になる。学校教育において、コンピュータの操作に割く時間の半分でも、図書館の使い方を、いや図書館というものがどのような原理で構成されているのかを教えれば、今の大学に徘徊する「迷える研究者」としての大学生や大学院生の数は、間違いなく減少するであろう。そのためには、図書館で仕事をする人々が、もっともっと利用者教育に力を入れるべきである。とにかく、利用者の図書館に対する理解のレベルを上げることだ。何せ、図書館は、使う側の実力があればあるほど、多くの収穫を返してくれる無尽蔵の宝物庫のようなものなのだから。
⇒目次へ
後記

 「ふぉーらむ」第1号をお届けします。ニュースレターで原稿募集し、最初の原稿が届いたのが7月。足かけ4ヶ月はちょっとお粗末な編集でした。反省。それでも、箸は2本筆は1本の文士10名の皆様に勢ぞろいしていただき、裏方としてはお粗末振りが遠景に霞み冥利冥利の紅葉日和です。みなさまの言いたいこと、残しておきたいこと何でも結構です、この広場(フォーラム)に一文をお寄せいただければ、裏方の私はせっせと号を重ねるべく努力しますので、私を駒ネズミのように働かせてください。
 基本的には春号と秋号の刊行を考えていますが、原稿の集まり次第では特別号もやぶさかではありません。またホームページでも展開しますので、いつでも原稿をお寄せください。図書館サポートフォーラムの筆は一本文士に乾杯。
 学生時代から結構たくさんの雑誌を作ってきましたが、「ふぉーらむ」1号はかなり充実した内容の雑誌です。裏方として楽しみにしています。
 また、「図書館への思いはつのるばかり」を書かれた近江様より、氏が参加する流山市立図書館友の会が同市立図書館の運営に参加する件について、どのように進めたらよいのか皆様からお知恵を拝借できればと言付かっています。事務局宛ご連絡いただければと思います。
(森本)

トップページバックナンバー