雪嶋 宏一 氏(早稲田大学教育・総合科学学術院教授) 受賞のことば


雪嶋宏一氏 この度はかくも栄誉ある賞をいただきましたこと関係者の皆様方に大変感謝申し上げます。私の受賞理由は日本国内におけるインキュナブラの調査研究と西洋書誌学の発展に対するものですが、これまで30年近く、人生のほぼ半分の期間にわたって人知れず片隅で続けてきたので、このような賞の受賞対象になるなどと夢にも思っておりませんでした。本当にびっくりしている次第です。

 私がインキュナブラの調査を行おうと考えたのは、1957年の天野敬太郎氏による調査、1964〜66年の天理図書館の富永牧太氏の調査があったからでした。両調査はともにアンケート調査であり、現物調査ではありませんでした。そのため、調査報告にはおかしな点もいくつか見られました。富永氏以来20年以上誰も調査していなかったのですが、その間に日本には少なからずインキュナブラが入っていました。特にバブル期には名だたるインキュナブラが続々と古書展示会に出品され、国内の図書館に収蔵されていきました。さらには、丸善がグーテンベルク聖書を落札した頃です。全国所在調査をすれば以前の調査の何倍ものインキュナブラの存在がわかるはずだと思ったからです。また、海外からは日本に入った貴重な資料がどこに行ったか分からないし、日本はそのような情報を国外に出さないと批判されていました。それでは全国調査をして所蔵情報を海外に発信しようと考えたものでした。一方、インキュナブラの研究は書物の考古学とも言われています。私は学生時代より黒海周辺の古代史と考古学を勉強しておりましたので、それは私にぴったりだとも思い当たったのでした。

 こうして、インキュナブラの調査を始めるにあたり、私に書誌作成方法を教えてくださった深井人詩先生に相談しました。私は当初、以前のようにアンケート調査でよいのではないかと思っていましたが、深井先生は「誰がインキュナブラのことなど知っているのか、あなたが自分で現物調査をしなさい」と言われました。私は背中を押されたと思いました。それ以来今に至るまで国内のインキュナブラを調べ続けることになったのです。深井先生には感謝するばかりです。

 1988年に早稲田大学図書館所蔵のインキュナブラを調査したのを皮切りにして、以前の調査に収録された所蔵先を手掛かりにして、慶應義塾図書館、天理図書館等を訪問して1点1点現物と向かい合って調査を行いました。そして、早稲田大学職員の海外研修で1989年7月から8か月ほど英国図書館をはじめヨーロッパの大図書館を訪問してインキュナブラと西洋書誌学について勉強させていただきました。特に、英国図書館ではインキュナブラの世界的データベースを構築していたISTC(Incunabula Short Title Catalogue)調査室にお世話になり、ISTCの書誌データの自由な利用を認めていただきました。

 帰国後には日本国内の所蔵を知るために雄松堂書店と丸善から多くの情報を提供して頂きました。それに基づいて調査に向かいました。私立大学図書館協会と町田市立国際版画美術館から研究助成金をいただいて調査を続け、その調査結果として1995年に『本邦所在インキュナブラ総合目録(IJL)』を雄松堂出版から出版させていただきました。

 しかし、これで終わりではなく、出版後も国内にはまだ調査が及んでいないインキュナブラがたくさんあることがわかりましたし、国内に続々と入ってきておりましたので、調査を継続し、さらに私立大学図書館協会からも研究助成金を再度いただきまして、2004年に改訂増補版としてIncunabula in Japanese Libraries (IJL2)を英語版で雄松堂出版から上梓させていただきました。その後も調査を続けております。現在国内に550コピー以上のインキュナブラが所蔵されていることがわかっています。その結果として第3版を刊行する予定にしております。

 このようなインキュナブラ調査の傍ら、明治大学リバティ・アカデミーで西洋書誌学の講座「西洋古版本の手ほどき」を2003年度に開設することになり、以来12年間、図書館員や製本家、書店や出版社、印刷会社の人たち等の社会人に向けて西洋書誌学の授業を続けました。その間に100回以上講義を行いましたが、一度も同じ話にせずに変化をつけて15世紀から18世紀までの書物の話をしましたので、私自身大変勉強させていただきましたし、たくさんの仲間を得ることができました。今は名前を変えて早稲田大学で講座を継続しております。明治大学と講座の受講者の皆様には感謝するばかりです。

 これまで誰にも注目されなかったような私のささやかな調査に対してこのような栄えある賞をいただきましたことが、日本で西洋書誌学を目指す若い人の励みになり、今後の西洋書誌学の発展につながれば誠に幸いであると思っております。

 本日は本当にありがとうございました。謹んで御礼申し上げます。