第 4 号 2007年7月5日発行
発行人 末吉哲郎
 発行所 図書館サポートフォーラム

目 次

《巻頭特集》 第9回 図書館サポートフォーラム賞受賞式

於/2007年4月13 日(金)
喜山倶楽部 光琳の間(日本教育会館内9階)

1.趣意説明(末吉 哲郎/代表幹事)
 サポートフォーラム賞も今回で9回目ですけれども、各方面でユニークな表彰として注目を集めています。
 フォーラムは図書館のOBの会ですが、図書館在任中にこういうことをやればよかったというようなことがいろいろあると思います。そういう夢をかなえて下さった方を表彰しようということです。
 それからもうひとつは、図書館は、今はそうでないですけども私なんかのときには、図書館員による図書館員のための図書館という言葉がよく流行っておりまして、利用者は二の次というような認識でした。
 けれども、図書館はやはり社会的な存在でありますし、アーカイブズも含めて、たいへん重要なポジションになっています。それで、そのレベルを引き上げるために努力なさった方々、機関というものをぜひ表に出そうということであります。
 ですから、ただ長年こつこつと勤続し、図書館の活動をやっていただいた方々、そういう方ももちろん大事でありますが、それも踏まえながら、できるだけユニークな活動、従来なかったような活動を展開なさった、それから図書館の新しい道を切り拓いてこられた方を表彰しようということでございます。そして図書館員だけでなく、図書館員ではないが図書館に対する建設的な発言をなさっている方々、そういう方も含めて今回は対象にしようということでございます。
 ちなみに申し上げますと、表彰を受けられて、これを糧に飛躍なさった方もあって、たいへん縁起の良い賞でございます。受賞なさったとたん、今まで助教授であった方が教授になったとか、実例がございます(一同 笑)。
 それから、ある専門図書館の方の受賞の後、新ビルができたのですが、従来の3倍のスペースの立派な図書館になったという事例もございます。
 もうひとつ、地域の公共図書館のサポートチームを表彰いたしました。なんと、その代表の方が表彰の楯を持って、市長さんにお見せになったそうです。市長さんもたいへん喜んでいただくと同時に、図書館行政懇談会にチームを公式に市民代表として招き入れ、建設的な意見を聞くようになったそうです。
 そういうことでたいへん縁起のいい賞でございます。入賞した方々に感謝を申し上げますとともに、これからも図書館活動発展のためにご活躍いただきたいと思います。
 
2.講評(山崎 久道/表彰委員長)
 山崎でございます。先ほど代表幹事の末吉さんの方からお話があったように、突然、この役を井上先生からお預かりしました。講評をする羽目に陥ったということで、少し恨みがましい思いがあるんですけれども、ご命令ということで、一も二もない話ですので、お話したいと思います。不十分ではございますけれども、何分にもおめでたい席ということですので、それに免じて不手際はお許しいただきたいと思います。
 今回ご案内のとおり、3組の方が受賞されて、真におめでとうございます。その陰には非常に大変なことがございまして、全部で十件の推薦を受けました。
内訳が、個人を推薦してくださったのが五件、それから機関・組織・団体を推薦してくださったのが五件。推薦の条件に個人であるか団体であるかをはじめから指定していなかったということで、もちろん全部審査対象にいたしました。
 表彰審査の委員会は先ほど幹事のほうからお話がありましたように、昨年度の二月、この二月ですが、日外アソシエーツで開きました。そのときにこの十件を対象に審査を行ったんですけれども、いずれ劣らぬ非常にすばらしい業績で、非常に審査は難航というか、議論になりました。
 そのときにひとつ議論として皆様にご報告しておかなければいけないのが、やはり個人と団体の問題をどのように考えるかということです。
 これはもともと明確になっていなかったということで問題があるとは思うのですが、やはりこの賞は末吉代表幹事が言われたように、夢をかなえてくれた人たちを表彰しようですとか、あるいは社会に対して有効な提言をしてくださった方を表彰しようですとかいうことからしますと、やはり個人といいますか、顔の見える方を我々としては表彰したいという意見が強くございました。結局最終的に、この御三方に賞を授与させていただく、というふうに決まったわけでございます。
 そういうわけで本当は全員に賞をさしあげたかったのですが、予算の限りがあるということで、すばらしい御三方を祝福させていただく、ということをまずご報告申し上げたいと思います。
 それで今日は、最前事務局のほうから届いた資料を見ていただきながら、とても私がこんなことを申し上げる役柄ではありませんが、一応、お役目ですので簡単なご紹介とコメントをさせていただきたいと思います。
 まず、「第9回図書館サポートフォーラム賞受賞理由」という資料がございます。御三方のお名前を私がフルネームで読ませていただきますけれども、これは国立国会図書館の書誌データベースのほうに仮名ふりがしてありますので、私がもし間違えたら、これは国立国会図書館のせいでございますので、お許しください。
 まず、平井紀子さん。
 元文化女子大学図書館司書長。服飾の専門司書として長年にわたって実務に携わり、大学図書館の責任者として後進の指導にもあたられた。さらにその活動の中から、目録、索引、文献解題等ドキュメンテーション活動に励まれた。特に池田文庫の資料を対象に世界各国の服装を平易な文章で解説した『解題集』はわが国初の試みとして評価され、図書館司書としての新しい領域を築いた。
 ということで、平井さんについての資料は別に綴じたものを準備させていただいております。これを見てまたあとで申し上げたいと思います。
 それから二番目、水谷長志さん。
 東京国立近代美術館主任研究員。美術図書館の活動ならびに美術館やアートにおける情報システム、ドキュメンテーションでの先進的な取り組みを通じて斯界の発展に貢献するとともに、さまざまな関連団体の立ち上げや運営に尽力された。それを通じて、この分野の重要性を社会に知らしめるとともに、活動の国際化にも貢献された。
 水谷さんについても同じく資料を添付してございますので、それもご参照ください。
 それから三番目でございますが、松岡資明さん。
 日本経済新聞文化部編集委員。ジャーナリストの立場から、一貫して図書館やアーカイブズの重要性とその社会的意義につき紙面を通じて訴えてこられた。そのことを通じて、こうした機関や機能の社会的認知と正しい理解を大きく推進し、また図書館やアーカイブズで働く人々に社会への目を向けさせるとともに、関係者を力強く鼓舞された。
 こういうことでございます。
 この御三方の業績を紹介させていただきます。
 最初の、平井紀子さんの資料をご覧いただきますと、主要論文記事、その他等々が載せられております。翻って考えてみれば図書館というのは、非常に重要な専門性を発揮する場所であると思っているわけであります。けれども最近見ますと、このような活動がどうもすこし低調なのではないかと思います。インターネットに押されているところがあるのかもしれませんけれども、それ以上に図書館員自身の勉強不足ですとかそういうところもあるのではないか、というところがすこし気になります。
 その意味で、平井さんは実に丹念に情報を調べられて、見事な解題をお書きになっている。図書館員はこのようにやはり情報発信を社会に対してするべきなのではないかというひとつのお手本を示されたのではないかと思います。
 たとえば添付されている、トルコの服飾について、ダルヴィマールという方の絵についての解説ですが、それを私もそれを読ませていただきましたけれども、皆さんもお読みいただくと分かると思います。これはもう専門の歴史学者が書いたんじゃないかと思うぐらい、本当に丹念で行き届いて、しかも、確固たる文化や文明に対する理解というものを感じさせていただくことができたと思っております。
 そういう意味でむしろ、その辺の歴史家よりずっと素晴らしいものを書かれたのではないか、私も昔、経済の歴史をちょっと齧ったことがあるのですが、そんな気がいたします。
 忙しい大学図書館の仕事の合間と言っては大変失礼でしょうけれども、それなのにそのような仕事を行うということ、特に図書館員として、目録とか索引とか文献解題という、資料の組織化といいますか、いわば本業のところで、そういう重要な業績を残された。しかもそれが、資料の文章を読んでいただければ分かるように、誰が読んでも理解できるように書いてあります。別に図書館の専門家でなくても、一般の人が読んでも非常に分かりやすい。史料について非常にきちんとわかりやすく解説なさっている、ということです。大変素晴らしい業績を残された。それ以外にも後進を育てる、あるいは図書館のマネージャーとしてやってこられた、そのことに敬意を表します。おめでとうございました。
 それから、水谷長志さんでございます。
 図書館というと、やはり第一の対象はテキストであり、書かれた文字であるというところがございます。
 それに対して水谷さんは、アートとか美術に対して、これをきちっと図書館情報学の心をもって取り扱って、きちんと整理していく。しかもそれを後世に残していく、そのための社会的な仕組みや装置を開発してこられた。あるいはそれをご自身だけではなく、ネットワークを含めて、同好の士やそういう人たちと有機的な連携をとって進めてこられた。非常に素晴らしいことだと思います。しかも単に日本国内だけではなくて、海外的、国際的にも通用するような流れというものを構築されている。その意味で、アートに関するドキュメンテーションや情報システムや、そういうことについての、まさに権威者になっていらっしゃるのではないかと思います。
 それと同時に、昨年の十月に、IFLA東京大会20周年の会を図書館サポートフォーラムの行事として行いましたが、そのパネリストのお一人として参加をしてくださいました。そのとき、東京大会を契機にして、アートドキュメンテーションの本格的な活動をはじめた、あるいは日本におけるアートドキュメンテーションの推進者になったんだと、こういうふうなことを言っておられました。まさにそのような国際的な会議や催しというものを契機として、御自身のキャリアを伸ばすと同時に、しかもそれを日本の専門的な人々の中でひとつの大きなうねりとして作り上げられた。ということで、高い評価を与えることができるのではないか、という風に私たちは考えたわけでございます。そういうことで、水谷さんのアートドキュメンテーションにおける仕事、または図書館情報学の専門家として問題に取り組んだ姿勢というものを高く評価させていただきました。おめでとうございます。
 三番目になりましたが、松岡資明さん。大変有名な方で、私たちは日経新聞の紙面で松岡さんの書かれた文章を、いつも読ませていただいています。そのなかで、松岡さんは表彰理由にもありますように、なかなか社会において日があたらない、図書館やアーカイブという世界に対して、非常に有効な応援といいますか、本質を見抜く議論をされていたのが非常に大事なことだと思います。図書館やアーカイブに関して日本は遅れているとかそういうことでなく、なぜ遅れているのか、それが日本の社会にどういうマイナスをもたらしているのか、ということに切り込んで、鋭く提言なさっています。そういう国は文化的に貧しい、いくら経済的に発展しても一流の国ではない、ということを松岡さんの書かれたことから私たちは感じることができる。
 ということは、きっと松岡資明さんの書かれた記事を読んだ日経新聞の読者なら、みんな感じてくれるに違いない。きっとそれはおそらく日本の図書館や文書館や、そういったものに対する一般の人々の理解を大きく展開させてくれる契機になり得るのではないだろうか。そういうふうに思います。私たち図書館の中の人間がそういうことを言うのも非常に大事なのですが、松岡さんのようにその外側から中立的な目で見て、あるいはある部分は一般人的な角度から言ってくださるということは、私たちにとって大変有り難いことでありまして、私たちは松岡さんの激励に応えていい仕事をしていかなければ申し訳がないという気がしているわけでございます。そういうわけで、今回このような賞をとっていただいて、いっそう健筆を奮っていただけると、ぜひ期待をしていきたいと思います。
 その意味で、今回ひとつだけ追加的に申し上げますと、『情報の科学と技術』という雑誌がございまして、その最新号に、図書館とアーカイブズについて、松岡さんのお書きになった文章がございます。これはたいへん物事をよくまとめて、私はこれは図書館やアーカイブズで働いている人間にとっても参考になる部分が多いだろうと思いますので、ぜひご一読をお薦めしたいと思います。こういう私たちの専門の世界の雑誌にも記事を書いてくださったということは、たいへんありがたいことだと私は考えております。どうもおめでとうございました。
 私の個人的な意見を言いますと、この御三方は図書館に非常に深い愛情を持っていらっしゃると感じました。しかし愛情だけでは物事は成り立たないわけでして、それがうまくコントロールされた愛情だということです。結局何をしなければいけないかということを冷静に分析された上でそれぞれにお仕事をなされたと、そういう印象が非常に強いわけです。そういう意味で、見事にコントロールされた愛情だと思います。つまり平井さんと水谷さんは図書館の内側から、松岡さんは外側から、図書館に対していろいろな思い入れを持ちながら、そのなかでなすべきことをやっている。
 そしてさきほど末吉代表幹事のほうからも、社会との繋がりの問題というもののお話がありましたけれども、まさにその点でも私は、御三方がそれぞれ社会との関わりを常にお考えになっているのだというふうに感じました。
 たとえば平井さんの文献解題にしても、文献解題なんて図書館員が読めばいい、そういう姿勢は全くなく、これは全ての服飾に関心のある人に読んでほしい、そういう姿勢が明白です。社会のなかで何を訴えていくのかという姿勢を自分から目指していらっしゃる。わかりやすい、しかし正確さをもちろん失わない、そういう記述をしていらっしゃる。
 それから水谷さんについても、アートドキュメンテーション、これは比較的地味な世界ですが、美術や作品も、保存や保管あるいは継承や整理・組織化ということがいかに大事かということを常に体現をしてくださっている。その意味で図書館のみならず、アートや美術の世界、そして社会に非常に大きな影響を与えてくださっています。
 そして松岡さんについては、先ほど申し上げたように、まさに図書館や美術館に対する社会の見方をある意味でコペルニクス的転換をさせる契機になるかもしれない。ぜひそういう転換が起こってほしいです。図書館というのは目立たない仕事で、知るひとぞ知るもの、アーカイブズなんてものは日本では流行っていない、なんていう議論があるなかでですね、それは間違っていると。中国、韓国、アメリカ、そういったところと比べても日本は情報ストックという点では非常に遅れているわけです。それを社会的に展開させる契機にしていけるかもしれないということで、やはり社会との繋がりのなかで持論を述べてくださっているわけです。
 そういう意味で、まさに御三方は社会的な部分でのコンテキストの中で、素晴らしい業績をあげてくださったと理解をしております。
 それから最後になりましたけれども、この図書館サポートフォーラム賞は今回で第9回目になりましたけれども、これに関しては、日外アソシエーツのお力添えと協力があったということで、賞の内容もそうですけれども、賞それ自体を続けていくということもたいへんなことでございますので、あらためて、そのことに感謝をさせていただきたいと思います。ありがとうございました。
 というわけで今日は、若干の個人的な感想も入りましたけれども、御三方にお出でいただき、表彰について選考経過をご報告申し上げました。どうもありがとうございました。

3.受賞の言葉
【平井 紀子 氏/元文化女子大学図書館司書長】
 今日はサポートフォーラム賞ありがとうございました。ただいま表彰委員長から過分なお褒めの言葉をいただき、たいへん恐縮しております。
 私、賞というものに本当に縁がありませんでした。ずっと考えてみたのですけど、小学校3、4年生のときに、家庭科の時間にふきんを縫いました。運針といいまして、手ぬぐいを折って、手に指貫をして、糸で裏表に七ミリぐらいのきれいな縫目が揃い良く出来たということで、講堂か教室に貼られて、努力賞みたいなものを頂いたような記憶があるだけです。
今回このサポートフォーラム賞は、個人の賞としては初めてで、たぶんもう最初で最後の賞で、冥土の土産になるのではないかと思っています。
 ただ団体としましては、1980年に文化女子大学の図書館の服飾文献目録を作り、「私立大学図書館協会賞」を受賞しました。実際に編集作業をしたのは我々グループ数人でしたが、やはりあくまで団体としての賞ですから、館長が全国の私大図書館が集まる大会で恭しく賞状を受取りました。
 今回は自分個人の賞という事で、たいへん嬉しく思っております。そしてその賞が、四十年近く図書館で勤めてきたことと、退職後もその延長線上での仕事を続け、「よく努力した」という賞かなとも思っております。
 添付しました池田文庫の解題については、池田文庫というのは皆様のお手元に配ってあります資料にも書いてありますが、宝塚歌劇を創りました財界の文化人でもあった著名な小林一三氏が、レヴューとか演劇のために集めた小さな資料室がありましたが、それを引き継ぎ、今は、大阪池田市の池田文庫という図書館になっています。池田文庫は、演劇・文芸資料を収集していますが、どちらかというと和物、たとえば浮世絵とか、特に上方役者絵の収集では日本屈指だと言われております。が、欧文の服飾関係の資料については、整理があまりされておりませんでした。
 私が伺ったときにも、目録も簡単なもので、この資料がどういう内容なのか、どういう価値があるのかという評価はなされていなかったようです。それで私が文化女子大学でこういう仕事をしているということを耳にされて、池田文庫の資料を見てくれないかと頼まれたのがきっかけだったのです。
 『館報 池田文庫』は、年二回の小冊子ですが、とても洒落た館報です。ここの資料紹介という欄で欧文の服飾関係の文献を連載で書かせていただいたわけです。最初が1993年で2004年までですから、十年以上長々と連載になりました。初めは一、二回の予定でしたが、今までどちらかというと日本の書物の紹介が多かったなか、欧文の資料を紹介したということで、半分お世辞なのかもしれませんけれども、読者から是非続けてほしいという要望がありまして、連載になり、いつの間にか長期連載になってしまいました。
 池田文庫には何回か通いまして、書庫で本を見せていただいたのですが、欧文の服飾関係書、基本的で古典的な資料がきちんと収集されており驚きました。それは宝塚歌劇の演出家である白井鐵造さんという方がパリに留学されたときに、外国のポスター、楽譜、図書雑誌など購入されたものを、池田文庫に寄付され、今回私が書いた解題書の多くが、その白井文庫の中にありました。
 服飾の文献というものは歴史が古く、初版のものは1590年くらいからあります。それはラテン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語版が多いのですが、池田文庫の本は、もう少しポピュラーな広まった段階での英語版が比較的多かったので、語学力の貧しさも、年に二回ということで何とかこなしてきました。
 欧文文献の場合、どうしても語学力が要求されます。私たちが勤めていた1970年頃から2000年は意外と良き時代で、各大学図書館では電算化などに取り組んでいた活気ある時代でもありました。特に文化女子大学というのは、皆さんご存知の文化服装学院という服装の専門学校を母体として大学・大学院がありますが、専門学校生は多いときには一万人と言われた程で、けっこう財政も豊かだったようでした。その割には、図書館資料費は多くなかったのですけれども、古書屋が古典的な本を見計らいで持って来るときなど、特別購入願いの申請を書き、理事長室へ持って行きますと、大体OKが出まして、70年代から80年代には、かなり西洋の古版本、稀覯本を購入し「西洋服飾関係資料」のコレクションを構築しました。
 購入したものの、では私たち司書はそれを整理し、利用出来るようにするのが仕事です。今度は問題が山積しました。ただ持っているだけでは死蔵本になってしまいます。目録を作り、どんな内容の資料かを学内に報知しなければなりません。そこで先ずみんなで語学の勉強をしました。業務終了後、ドイツ語の先生を外から招き、有志で勉強したり、私はフランス語やロシア語もやりました。館員それぞれ何か外国語をやっていたようでした。でも語学を色々勉強したと言いましても、「読める」までには程遠く、何語で書かれた本で、その単語がどういう変化をし、原形で辞書が引けるというくらいの語学力が身についた、ということです。
 もう一つ、ラッキーであったことは、AACR2の西洋古版本の稀覯書の書誌記述を一橋大学の社会科学古典資料センターで学べたことでした。
 定年の一年前、今日も館長の北畠耀先生がお祝いに駆けつけてくださいましたが、北畠先生は「長く勤めた最後だから好きなことをしていいよ」と言われまして、未熟もかえりみず、解題付きの貴重書目録を作成させて頂きました。今日の図書館界とは違い、まだ司書が頑張れた良き時代で、幸せだったなと思っております。
 在職中での池田文庫の執筆は、毎日の仕事とバランスを取りながら出来ました。退職すると、よく鬱状態になるとか言われますけども、おかげさまで私は池田文庫いう目的があったせいか、母の介護と最後を看取ったときも、目標となり気力を与えてくれました。そこそこに辞書を引いたり本を読んだりして、長年、勤めた司書の仕事を元手にして自分のこれからの道を模索していました。年に二回の執筆でしたが、オーバーな言い方になるかもしれませんが、生きる勇気を与えてくれたと思っています。今は都留文科大学の図書館司書課程の非常勤講師をしています。
先日、本棚で館報を取り出し、連載で各巻ばらばらに掲載されていたものを冊子にまとめて、自分への贈り物にしたのです。
 今日お手元にお配りしましたそれも、最初の号に掲載したものを載せましたが、池田文庫は、コアとなる服装関係の基本的な資料、特に演劇衣装考証に有用な資料、服装史から民族史まで揃っていました。
 欧文文献の解題という難しい書誌的な解説ではなく、「服飾史って面白いな」と一般読者が楽しんで読めるように読み物風に書いてみました。
 そんな次第でございましたから、私は良き師、良き先輩に出会いチャンスをいただき、自分で好きなことをやって、今回この賞を頂けたということは、本当に嬉しく幸せ者だと思っております。ありがとうございました。

【水谷 長志 氏/東京国立近代美術館主任研究員】
 本日ともに、この赤いリボンをお付けの平井さん、松岡さんはもとより、図書館サポート・フォーラム賞の歴代の受賞者、先輩の皆さまに比べますれば、いささか若輩の身で、まだまだ道なかばの私ですが、このフォーラム賞をいただくこと、大変光栄に思うとともに、いささか戸惑いも感じております。
 道なかば、などと申しましたが、道があったのかどうか、今ある仕事についたのも、そもそも図書館につながったのも、”ひょん”なことからでした。
 私のもっとも敬愛する小説家、エッセイストの一人に、『週刊新潮』に「男性自身」を連載した故山口瞳さんがいます。その一篇に”仮り末代”というのがあります。”ひょん”なことから、とある町に居酒屋を開き、当座のことと思っていたら、いつのまにか末代の生業(なりわい)になった、というような意味でした。近代美術館に職を得たのが、1985年。早、20年を越えてしまいました。ここが、私の”仮り末代”なのかと、いささか思い悩んでいたところでありました。
 そもそも図書館と縁を持ったのは、北陸の美しい街で、最初の大学の4年をアグリカルチュアならぬ能楽部出身で、早い話は、勉強しないで、能―謡と笛に興じていただけで4年間を終わり、その後、いささかヤクザな仕事を3年ほどして、いまは無き筑波の図書館情報大学に第3年次編入したことにあります。
 たったの2年間でしたが、そこは、もうパラダイスでありました。指導教官に藤野幸雄大先生を得て、末吉さんとも、京藤さんとも、お二人ともこのフォーラムの大中心ですが、知己を得たのが、筑波の地においてでした。
 図書館へ向かう意志はありましたが、これまた”ひょん”なことから、美術館に職を得て、翌年1986年にIFLA東京大会に遭遇、いよいよもって、図書館の世界の広さに瞠目し、憧れは深まりました。ですが、実際の職場は、ライブラリ以前の倉庫と化した資料室を前に、ワンパーソン・ライブラリの”悲哀”と”恍惚”にひたる毎日でした。
 その時、一番必要だったのは、人的ネットワークを築くこと、自分を外に開いていくことだったと思っています。すでにフォーラム賞をお受けの波多野宏之さんたちと1989年、アート・ドキュメンテーション研究会を立ち上げた訳です。
 先ほど山崎先生より過分なお言葉をいただきました。今回の受賞に当たっては、美術図書館横断検索のALCの設立が、一つの要素であるようです。今日、美術館図書室の現場は、大変に厳しいものがあります。特に、人的配置において。先日もALC6館の担当者が10数名集まりましたが、そこにライブラリを専任として担う人は皆無であり、様々な制約のもと、みんなが非常勤という状況です。
 この現実を招いたのは、私を含み、私以上の世代の責任の結果、ではないかというように感じております。
 ALCは、アートライブラリの現場の力を、より世間に示していく、アピールする方便として開発したに過ぎません。
 願うらくは、今回の私の受賞が、思い上がった物言いのようではありますが、私個人への表彰を越えて、今、現場にあって、アートライブラリを実質において支えている、その、みんなへのささやかなエールにつながることを、願って止みません。
 筑波にいた2年間、恩師である藤野先生とホントに良く飲みました。先生が飲んだ最後に歌われるのが、寅さんの歌、”奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の、今日も涙の陽が落ちる、陽が落ちる”という歌でした。
 本日、身にあまる”甲斐”をいただきました。生来の怠け者ですが、この賞に恥じぬよう、これからも奮闘努力してまいりたいと願っております。
 本日は本当にどうも、ありがとうございました。

【松岡 資明 氏/日本経済新聞 文化部編集委員】
 今お二人のご挨拶を聞いておりますと、私のような者がこの賞をいただいていいのかなという気がしてきまして、ここに立っていていいのかなという気持ちがますます強くなってきております。最初、全く信じられませんでした。私は早とちりがしばしばあるものですから、家に帰って妻に言いますと、それは何かの間違いだろうと(一同 笑)言われまして、私の方も何かの間違いだろうと思っていたのですけれども、そのうち何人かの方に、おめでとうございますというお言葉をいただいたりお電話をいただいたりしまして、これはひょっとして本当かもしれないぞと思い始めておりました。ただ、今日家に帰ってこういう楯を見せても、妻は信じてくれないのではないかと思うんですけれども。
 ただ、お二人のお仕事に比べますと、私は駆け出しといいますか、専門の勉強をした訳ではないので、社会に何ほどの影響を与えたのかなと考えてみますと本当に、やっと始まったくらいの感じかなと自分では思っております。
 そもそもは古文書の記事を書くために、国文学研究資料館の大友一雄先生をお訪ねしましたら、学習院大学でアーカイブズのシンポジウムがあるので来ませんかというお話をいただいた。シンポジウムを取材させていただいて、日本は中国や韓国に比べてアーカイブズの面では大きくおくれをとっていることを知り、文化面の「文化往来」というコラムに書きました。そしたら、それを読んだ当時官房長官の福田康夫さんがびっくりして、歴史的に重要な公文書を保存・活用するための整備を進める目的で懇談会をおつくりになった。その座長をお務めになったのが高山正也先生です。そんなことからアーカイブズに関連する記事を書くようになりました。
 実はそういう記事を書くにつれ、この世界は本当に、アーカイブズということだけでなくて、図書館、それから博物館、全部含めて非常に繋がりが太く深くてしかも広がりがある、ということがだんだん分かってまいりました。結構記事を書いているなあと自分でもたまには思うのですが、それでも書かなければいけないことのまだまだ半分も書いていない感じがいたしておりました。
 そういう意味で言いますと、今日いただいた賞は、末吉さんも山崎先生も仰っておりましたけれども、これから頑張るようにという意味でいただいたのだと思って、これを機会にこれからますます記事をたくさん書いて、少しでも日本の社会が将来に向けて、何がしかでも明るいものになっていけるように努力したいと思っております。今日はありがとうございました。

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俳句八吟

山内 明子

桶の浅蜊おどろかすなよ舌かむから

すっきりと終れよ恋と春の風邪

黄金週間胃のピロリ菌除菌中

子に乳を吸はるる快楽明易し

汗かかぬ修行したりと老妓云ふ

石鹸に貼ってせっけん涼新た

ひややかに死せる人起く暗転に

鳥渡る鳥より高く住ひをり

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小学生時代の”本の記憶”―『偕成社五十年の歩み』を参照して

植村 達男

 小学生時代に「お世話になった本」に、偕成社の偉人伝シリーズがある。黄色いカバーのかかった偉人伝。今でも、あの本の手触りを思い出す。10冊以上は、愛蔵していた。先般、偕成社の社史『偕成社五十年の歩み』(1987年刊)を頂戴して、過去の記憶を確認する機会があった。すると、”偕成社の偉人伝”は通称で、正式名称は”偉人物語文庫”と称することが分かる。その第1巻は、1949年(昭和24年)4月に発刊された『ベーブ・ルース』。著者は沢田謙であった。次いで年内に『リンカーン』、『福沢諭吉』、『コロンブス』、『エジソン』が刊行されている。当時の日本は占領中。このラインアップから、見え隠れする”アメリカの影”を読み取ることができる。5人のうち、3人はアメリカ人だ。加えて、コロンブスは、”アメリカ大陸発見者”である。そのような見地に立つと、コロンブスもやはりアメリカ関係者。このシリーズの最初の5冊のうち4冊(80%)までがアメリカ関連本ということになる。少々どころか大いにバランスを欠いている。そう批判されてもやむをえない。
 『偕成社五十年の歩み』の巻末には同社創業(1936年)以来の出版リストが付いている。このリストの中から記憶をたどりつつ、私が所有していた本をリストアップしてみよう。

 沢田謙『エジソン』1949年(昭和24年)刊
 沢田謙『アインスタイン』1950年(昭和25年)刊
 沢田謙『ノーベル』1951年(昭和26年)刊
 沢田謙『フォード』1951年(昭和26年)刊 
 川端勇男『ディーゼル』1952年(昭和27年)刊
 柴田練三郎『チャーチル』1952年(昭和27年)刊
 沢田謙『フランクリン』1952年(昭和27年)刊
 丸尾長顕『マゼラン』1953年(昭和28年)刊
 沢田謙『パスツール』1953年(昭和28年)刊
 浅野晃『源頼朝』1953年(昭和28年)刊
 沢田謙『高峰譲吉』1954年(昭和29年)刊

 このリストを見て、色々なことに気づく。先ず、沢田謙の著書が多いことである。『偕成社五十年の歩み』で、沢田謙は「外交、政治評論家」と紹介されているのみ。詳しいことはわからない。ところが、たまたま神戸の一栄堂書店から送ってきた古書目録(2006年5月号、29ページ)の中に、戦前期の沢田謙の著作を2冊発見した。書名は『ヒットラー伝』(1934年、講談社)と『ムッソリーニ伝』(1935年、同)である。古書価は3、000円と2、000円。ヒットラーの方が1、000円高い。沢田謙は、戦前にこのような本を書いていたのだ。チョット驚いた。その後、沢田謙に関する新たな情報を得た。須賀敦子の『遠い朝の本たち』(2001年、ちくま文庫)を読んでいたら、この沢田謙は『プルターク英雄伝』の編著者として登場している(187ページ以下)。須賀敦子(1929年―1998年)の少女時代に読んだ本として出てくる。『プルターク英雄伝』が出版されたのは戦前または戦時中のことであろう。話題をもう一度伝記を書いた著者に戻す。沢田謙以外の著者で、注目すべき人物がいる。後に『眠狂四郎無頼控』等の剣豪小説や『図々しい奴』等の現代小説作家として有名な柴田練三郎がチャーチルの伝記を書いている。柴田練三郎は、『イエスの裔』(1951年)で直木賞を受賞している。また、マゼランの伝記を書いているのが丸尾長顕。多彩な人物で作家としても活躍したが、日劇ミュージックホールの演出家というと分かるかもしれない。『源頼朝』を書いた浅野晃は、プロレタリア運動に参加した共産党員。獄中で転向した。そんなことを知ったのは、ごく最近のことである。

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図書館の風景

近江 哲史

1 「著述業」
 私はこの間、『神楽坂まちの手帖』というタウン誌に「佐久間貞一を語る」という小文を書いた。佐久間貞一とは、秀英舎(大日本印刷の前身)の創業者(明治九年創業)であり、また経営者でありながら、現在の労働基準法の前身たる工場法の施行を促進した人物である。この文章に付するに、私は自らの肩書きを「著述業・元大日本印刷勤務」とさせて貰った。他人から見ればこれだけの話、なんともないことである。ところが私にとっては積年の願望が適ったので、この雑誌が刊行されてきた時はそれこそ、やったあ、という気分であった。
 話は二十年ほど前に遡る。在職中の私の親しく付き合っていたライターにSさん(故人)という年配の方があった。東京外語を出た古典的なインテリで、本当にいい人だった。この方にある日名刺を貰ったら、その肩書きが「著述業」とあったのである。その頃でもすでに「著述業」は死語のごとく、使われることは少なかった。名刺にこう刷り込んだ人には後にも先にも一度もお目にかかったことはない。たいていなら、「何とかライター」などというはずである。しかし着流しの似合うような風格のSさんにはまことに相応しい肩書きであった。実はSさんご自身でも多少「照れ」があったかも知れない。いずれにせよ、私はいいなあと感じ、爾来これに憧れていたのである。
 元来、定年退職者が情けなく思うのは、肩書きを失してのわが身である。かっての栄光の「部長」も「取締役」ももうどこへやら。そこで、名刺もどうすればいいのか分からない。何かの書類に「職業」を書きこむにしても、態よく何か細々とやっている人は「自営業」とかいう。まさか「年金受取業」とはいえまい。私は冗談でいい時は「図書館ヘビーユーザー」と名乗っているが、それで食えるわけがない。肩書きというのは本人が名乗ればそれでいいのだ、という一般の了解事項みたいなものがある。だから皆勝手に何とでも言っているのである。コンサルタントとか評論家などというのも値打ちはピンキリだ。私が著述業を名乗ることはそれこそ実績からすれば傍ら痛しということなのであるが、そこはそれ、「自称」でいいのだとして、私は上述のごとく遂に意を決してささやかな述稿の後部に「著述業」と書いたのである。Sさん、ごめんなさい。
 さてこの頃の図書館はどうかというと、「私はヒマです」と顔に書いてあるような人がたくさん来ている。団塊の世代が定年を迎える頃となれば更にその傾向は進むであろう、という予想もある。しかし、暇人もいずれ図書館で読書を始めることになるから不思議である。そうなれば彼等も何かやらかすかも知れない。ひょっとすると大した作品を物するかも知れない。かくて将来の「著述業」者は今日もぞろぞろ図書館に出揃うのである。

2 本の巻頭に騙されるな
 これは一度他に書いたことなのだが、話の流れの必要上もう一度、書き出しを使うことにしよう。……私は以前、評論家Tさん(故人)と親しかった。十年ほど前の話である。そのTさんが重い病気になってしまった。私は病院に呼ばれて、Tさんに仕事を頼まれたのである。Tさんはその頃週刊誌や月刊誌などに連載ものをいくつか抱えており、すでに取材など終えているものが何本かあるのだが、これを原稿に書きまとめて出版社にやってほしいというのであった。私はすでに定年になっていたので、急遽この仕事に協力することにした。
 Tさんはさらに、大手出版社K社の時代小説大賞とかいう文芸賞の選考の下請けをやっていた。出版社の編集部は何百編も集まる応募作品の選考に、出入りの評論家、物書きの人達を下読みに使っているのである。私がTさんのさらに下請けとして受け取ったのは、二十点ほどの応募作品であった。ワープロ書きのものが六割ほど、他は手書きで、一点というのが三百枚くらい。内容はストーリーも登場人物も読み進めてみなければ分からぬ(本当は投稿の時、梗概が執筆者から届けられているはずなのだが、それを下読みの人に見せると、手抜きをするに違いないと思って渡してくれないのである)歴史もので、そんな厄介なしろものを、しかも評価を考えながら読めというのだからなかなかである。私は見舞いかたがたTさんの病床に行って、「こりゃ、たいへんな仕事ですなあ」とぼやいた。ところがTさんは「近江さん、簡単ですよ、そんなもの。最初の二、三枚パラパラと読んで、つまらぬものはドンドン放ってしまえばいいんですよ」とこともなげに言った。私はそんなものかと驚いた。しかしTさんの言われる通り思い切ってこの手法でやってみると、これはまことに効果的であった。バンバン形がつく。二次選考は、一度他の下読みの人達の作業も済んだものが揃えられてまた下読みの形になるが、その後、最終選考(これは名のある作家たちがやる)に上げる。指示通り、私はそこで一位から三位まで評価し、それぞれ短いコメントをつけてTさんの名で出版社に送った。私の仕事はそれまでであったが、後日結果を見ると、私が一位に挙げた作品が見事その期の入賞作品となっていて、結果的にTさんの名を辱めなかったことが嬉しかった。この時作品が当選してデビューを果した女流作家Mさんは、今や中堅作家の名をほしいままにしている。
 こうしてTさんは私に物書きの要領を教えてくれたわけであった。そして以下は私の考え事である。……世に出る出版物は売れるためには書き出しがたいへん大事である。読者だって店頭でパラパラ読みで買うか買わないか決めるのだから、商業出版物は必ずこの原則によっているはずである。
 (ようやくこれからが本論である。)さて、図書館が選書を行なうには、多くは「見つくろい」といって書籍流通業者が持ち込む本の中から選ぶことが多いという。そんな場合、図書館の人はやはりパラパラと見る程度であろうから、書き出しのいいものが選ばれるに違いない。文芸作品などはそれでいいだろうが、学術書、一般書などではもっと真ん中や後部に実質的な内容がある書物もあるはずであり、図書館司書は巻頭にだまされずにきちんと選書しておられるだろうか、と私は自分のあの体験からふっと心配にもなってきたことであった。

3 創造的なライブラリアンは?
 小説家と評論家はどちらが偉いか、という話題は昔からあったように思う。答えは「小説家」である。だって、小説がなければそれをネタにした評論は書けないからだ。その差は創造力の違いを言っているのだろうと私は考える。だいたい小説は無から有を生ぜしめるものと思われている。実際には小説もモデルがあったり、作者自身のことを書いたりしているのだが、外見には一応そうでない形をとっている。それは偉いものだ。評論家はその小説を材料にして、これはよくない、これはよい、と論評を加えて飯の種にする。
 そこでまたいきなりで恐縮であるが、「図書館利用者と司書はどちらが偉いか。」と問うてみる。それは前例に倣えば、答は「利用者」となる。利用者なしの司書は意味がないからである。では次に、「図書館人というのはクリエイティブであるか否か。」司書さんの仕事を考えよう。選書、これはある多数の本から図書館に入れる本を選ぶこと。レファレンス、これは聞かれたらそれに資料を以って答えてやること。リクエスト、これも注文を受けてのこと。こうして考えると、あまり創造的な業務はないと思われてしまう。なんだ、司書って創造性は要らないのかということになる(これは事象を極論して言っているので、実際はクリエイティブな回答もあるだろうことは私も知っている)のだが、さて考えよう。もともと実務の世界は皆そうなのである。会社員・公務員皆そんなものだ。医師・弁護士といった専門家でさえ、そういう意味で創造力はいつも使っているものでない。心臓外科の医者でも手術中は、あまりクリエイティブなことを考えずにちゃんと眼前の患者を手術することだけを考えていてほしいものだ。
 違うのは、芸術家・研究者の世界だけである。これらは創造性がないと仕事にならないであろう。他と違うもの、過去になかったものを作り上げるのが仕事だからである。
 作家を例に挙げれば、この人たちは常に前にはなかった作品を書かなければならない。といってまったく無から有をというのは困難であるから、やはりモデルを使うとか、他のものの模倣も混じってくることがある。取材作業が必要になることもある。歴史小説だとか、ノン・フィクション小説などというのはモデルが得やすいだろう。しかし職業として長い間作品を書き続けるにはどうしても創造力が枯渇することだってありそうだ。そこでやってはいけないことに手を染める。それが盗作である。作家の例では山崎豊子という人には何度もそれらしい話がつきまとっていた。『大地の子』も有名な小説であったが、遠藤誉氏(筑波大学留学生センター教授)は五百ページに近い大冊の『子(チャーズ)検証』(明石書房、一九九七)を以って自著が山崎氏に盗用されたと世に告発した。敗戦後の満洲での話であるが、遠藤女史は以前『子 出口なき大地』を書き、それが『大地の子』で盗用されたという経緯を統計的処理をも用いて詳細に書いている。しかし山崎氏の方は平気の平左であった。何の反論も見たことがない。何を言われても、売れている側が強いのだということだろう。
 学者もしばしば盗作をやる。岩波新書で潮見俊隆(当時、東大社会科学研究所教授)著『治安維持法』(一九七七)が同僚の指摘で弾劾された。同僚の奥平康弘教授の『治安維持法小史』(筑摩書房、同年)やその他のものが盗用されているというのだ。もちろんこれは直ちに絶版になった。岩波新書ではもう一つ、岩村忍著『マルコ・ポーロ』(一九五一初刷、一九八八第三三刷)は三十六年間増刷を重ねてきたが、アメリカの故ヘンリー・H・ハート氏の著書『MARCO POLO』(一九四二)の新版を元に幸田礼雅訳『ヴェネツィアの冒険家』(新評論 一九九四)が出た時、訳者が気付いたという。全文の構成は、原書と訳書を対比してみると構成構造がそっくりである。岩村氏はすでに亡くなった後での話。以来、増刷はもちろんされることはなかった。
 新潮選書では梅北道夫『ザビエルを連れてきた男』(一九九三)が、二冊の文献から盗用しており、回収され、絶版となった。この他、私が心得ている例だけでもまだまだたくさんある。(私はこういう盗作などが露呈した結果絶版になって回収された書物のコレクションをしている。まあそう点数があるわけではないが、他に類例の少ないコレクションという価値はあると思っている。)名を成して、まさかあの人が? というレベルの人でもやってしまうのである。ひとえにこれは創造力の枯渇によるものであろう。しかも新書・叢書類に多いのは、刊行が出版社から時間的にせかされるためではないだろうか。
 さてまた話は図書館へ。創造的ライブラリアンは、利用者からレファレンスを求められないうちから、「おい、ここにこんな画期的なテーマが落ちているよ。誰か研究を始めないかね」とか、「現在の世の中にはこういう分野が未開拓だぞ、ここを掘ってみたらどうかな」というごとく、私の言葉で言えば「新分野開拓学」とでもいうべきものを開発していかれればどうだろう。司書はいつも図書分類の十進法とにらめっこしておられるのなら、いろいろな分野というものに関心を持たれるであろう。各部門の境界面のことや、融合、総合ということにはいつも考えが及ぶであろう。こういう分野は将来必ず有益である、と示唆し、一般の人たちに先行して主唱することが、クリエイティブ・ライブラリアンと思うのだが、そんなことはどなたもお考えにはならないものであろうか。あるいは私の考えることが奇態に過ぎるであろうか。
 (五十年近く前の話。外交史のゼミにいた私が文学好きであることを知っていた指導教官のT教授は私に、国際政治の中の文学とか、あるいは逆か。そういうテーマを考えたらどうだというようなことを言って下さったことがある。私は卒業後もそれは何とかならないかと絶えず気にかけていた。しかしものにすることはできずに現在に至っている。)
 境界面とか複合部分に新しい分野が開かれることは多いはずだ。図書館司書の各位は、そういうことに気づきやすい場におられるのではないだろうか。

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ぞうきんと辞書

三浦 邦雄

 先日5月上旬、図書館とともだち・鎌倉(略称/TOTOMO)のメンバーと大船の松竹撮影所跡地に移転した緑に囲まれた真新しい鎌倉女子大学キャンパスを訪問し、その中央図書館を見学させていただいた。TOTOMOは市民による鎌倉市の図書館の応援団で、市民が主役の理念のもと地域図書館をサポートする幅広い活動を行っており、私もそのメンバーに入っている。このTOTOMOは2001年に第2回図書館サポート・フォーラム賞をいただいている。同年の受賞者には書誌の書誌を構築された深井人詩さんが居られた。
 TOTOMOの行っている活動の一つに市内の学校図書館へのサポートを市教育委員会などとも連携しつつ行っており、また児童だけでなくいろいろなところから依頼されて就学前の幼児達への絵本を読み聞かせるお話し会を継続して会員が手分けして子どもの母親たちと一緒に行っている。公共図書館の利用者は幼児からお年寄りまであるが、特に未来を担う幼児や子どもたちへ読書の楽しさ・面白さを植えつけて行くことは大切である。そのためのノーハウを研鑽しなければこのことは達成できない。

 さて、鎌倉女子大学は家政学部と児童学部の2学部から成るいわば単科大学だが、正門ゲートをくぐり菩提樹の並木道の正面に堂々たる図書館棟がある。鎌倉市図書館と相互貸借を実施しているが、卒業生以外は一般には開放されていないが、スペースのゆったりとした綺麗な図書館であった。一言で言うと若い図書館である。蔵書数は11万冊と少ないが倍増計画途中のことであった。参考図書類は教養科目と専門科目と別々に配架されていたのが特徴的であったが、日外アソシエーツのものは少なく日外ファンとして未だ営業余地ありと感じた。若いということは蔵書の深みがないということであるが、でもその若さには基本的な図書は揃っており、環境の良さと相俟って学生たちは本当に幸せだと思った。勉強には図書館でもプライヴァシーと読書に快適な環境が必要でこの若さ・美しさは古い図書館ではなかなか味わえない。訪問するのが楽しみでないと図書館は行かなくなるものだ。
 この図書館は館長や司書さんのお人柄から必ずや最新の図書を揃えて行かれるとともに、蔵書のアーカイブ性を深めて行かれ、素晴らしい図書館に成長されるだろうと思った。

 鎌倉女子大学の建学の精神・教育方針に「ぞうきんと辞書を持って学ぶ」と言う言葉があり、その精神が学生たちに教育され実践されていることを知り感心・感動した。ぞうきんは今ではダスキンに変わってしまったが、ぞうきんは汗を流すこと、辞書は常に初心に帰り白紙で辞書を引くこと、ぞうきんは勝手に動かないから、自分で持って拭かなければ役割を果さない、同時に辞書も自分で分からないことを積極的に調べなければ意味がない、どちらもただのものに過ぎなくなる、大切なことは自分で動いてそれを経験として生かすことだというような精神だそうだ。見事に知識と経験が一体になる言葉である。日外アソシエーツ ファンとして辞書・レファレンスツール専門出版社の精神に近いのではと思う。
 青年の成熟とは主観的判断から客観的判断が出来るようになることでもあろう。読書はその手助けとしての役割は大きいと思う。

 なお、鎌倉女子大学は一般向けの生涯学習講座も活発に開いており、そのなかの一つに『吾妻鏡』を読む講座があり私も少しずつ読ませていただいている。鎌倉の2大史料(アーカイブ)は『吾妻鏡』と『太平記』であるが、丁度15―17世紀のヨーロッパの中世・ルネッサンス時代がそうであったように、この2書を通しても中世(鎌倉・南北朝時代)は実に面白い時代と思うようになって来た。歴史は現代に至るまで戦争に次ぐ戦争であり世界は少しも変わっていないと思う。

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図書館友の会にかかわって

岡田 恵子

 一九九二年九月にアメリカを訪れた。デンバーで開かれた、図書館と情報技術協会(LITA)全国大会に出席される牛島悦子先生(当時白百合女子大学)のお誘いを受けて、同行させていただいた。その折、公共図書館としては世界で最先端の情報システムを構築しているというコロラド州のコロラドスプリングス市立図書館を見学した。

建物や机などの備品はなんら新しくはなかったが、利用者用の端末が古い木の台の上に並んでいて、ハワイの図書館の蔵書まで検索できるのに驚いた。十年先の日本はこうなるのかと、未来を垣間見る思いを浮かべたものだった。その図書館の一角に、友の会と大きく書かれたカウンター(写真参照)があった。退職した職員たちがその席に立ち、利用者や見学者の案内を、手のたりない職員を助けて行っているという話が印象的だった。

〈日仏会館図書室友の会の成立ち〉
 元職場である日仏会館図書室に友の会ができたのは、一九九六年のことである。あれから約十年経ったが、コロラドで見たようなコーナーは存在しない。それどころか、利用者はそんなものがあるのかどうかもほとんど知らないのではないか。しかし、今では影の存在として、ほんのわずかではあるが、日仏会館の活動の一端を担っている、と言えなくもない。ただし、この会は任意団体で会館の組織とは別のものである。
 一九九五年にお茶の水から恵比寿に建物が移転した前後、図書室はいろいろな問題を抱えていた。これには、少なからぬ利用者の方々もたいへん心を痛めていた。あるとき、われわれ利用者にも何かできることはないものか、と相談を持ちかけてきた人がいた。この人物は、若い頃から図書室を頻繁に利用していた一人で、その後、渋沢・クローデル賞(注1)の対象となった本を書かれたが、それを書くに当たっても図書室の蔵書を大々的に利用された方である。そのとき私は、利用者の組織として、パリ国立図書館にも友の会というのがありますが、とパンフレットを差し上げた記憶がある。
 その頃、新しい図書室を広報するための活動として、二ヵ月に一度、閉館後の閲覧室で小さな講演会を行っていた。その際、講演に関する蔵書をひと月ほど展示したりしていた。講師は、学生のころから図書室を利用し、すでに大学の先生として、著書や訳書を出されている方々を中心にお願いし、みなさんボランティアで引き受けてくださった。
 二年ほど経った頃、私は体調を崩し、もうこの活動をやめようかと思った。天の助けか、先の利用者は賛同者に呼びかけて友の会を結成しており、この活動を引き継いでくれたのである。

〈その後の歩み〉
 退職後数年たって、私はこの会の世話人を引き受けることになった。世話人たちが相次いで健康上の理由や家庭の事情で、退任を申し出たからである。一時六十名を越えていた会員も次第に減ってきた。会の存続が危ぶまれた。ここで私はふたたび、この活動を断念してもよいのではないかと思った。しかし、危機的状況のときには立ち上がる人がいるものである。
 それは、三代目の現会長である彌永康夫氏と、図書館サポートフォーラム賞を受賞された波多野宏之氏であった。彌永氏は私が図書室に職を得たころ、若き主任として二ヵ月ほど図書室に勤務され、その後フランス大使館広報部に永く勤められた。訪日した大統領ほか要人の通訳をされるなど、フランス語とフランス事情に卓越された碩学で、フランス政府から国家功労勲章を受けられている。波多野氏は日仏会館や日仏協会の評議員を歴任、日仏図書館情報学会を盛り立てた人のひとりである。願ってもないコンビであった。フランス学長も交代し、講演会をフランス事務所と共催してくれるようになったので、広報の手段が増え、聴講者も多くなった。

 現在は年三回、主として広くフランス文化、政治、経済、社会、思想など、それぞれのテーマは専門的でも、公開の講演会で分かりやすく、たいへん親密な雰囲気の中で行われている。戸田光昭先生がかつて本に書かれた”情報サロン”の雰囲気がかもしだされる。現在は日仏会館の都合により会議室で行っているが、講師が作成する資料のほかに、演題関連の図書を回覧、参考文献をできるだけ配布している。

また、図書室の紹介も付け加える。講演要旨は年一回発行される”友の会通信”に掲載し、友の会のホームページにも載せている。後者には、この六月で三十五回目になる講演会の一覧も載っている。

〈雑感〉
 私は、このアニマシオン活動に当初からかかわってきているわけだが、幸せなことに講師に困ったことはほとんどない。会長はじめ世話人たちの人脈はなかなかのものである。あるときはフランス事務所(フランス政府の管轄)で講演者がいない月があり、そのとき予定していたフランス人講師を事務所主催の講演会に回した。またあるときは、日本事務所(財団法人の管轄)の講演会主催者から、なかば講師を横取り(?)されたこともある。ある先生が直前に病気にかかって講演できなくなったときは、ピンチヒッターとして、数日前であったのにかかわらず、即座に引き受けてくれた利用者がいた。それほど実力のある講師陣が来てくれているのだ。
 しかし、今までの友の会は、会長と数名の世話人で細々と、できることしかやっていない。それでよしとしているわけではないが、存在し続けていれば、もっと良いことができるようになるかもしれない。今年三月の講演会は、毎日新聞社専門編集委員の西川恵氏による、「フランス大統領選挙の展望と欧州」と題した講演であった。時宜を得たテーマであったためか、ホームページなどを見てきた若い学生たちも参加し、かつてないほど盛会であった。
 
 以上は、公開の専門図書館に生まれた友の会の活動の一例である。今後どうなるかわからない。そんな心もとない状態ではあるが、十年続いたということは、利用者や支援者たちの、そして、会場の準備や、参考文献リストの作成などに協力してくれる事務所や図書館員スタッフの熱意と協力を反映するもので、ありがたいことだと思っている。

友の会ホームページ
http://www.bekkoame.ne.jp/~n-iyanag/AABMFJ/toppagej.html
(注1)会館の創立者二人を記念して日仏会館と毎日新聞社が主催し、日仏両国において、それぞれ相手国の文化に対してなされたすぐれた研究成果にたいして贈られている。

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教師・学生・役員かけもちの記

河塚 幸子

 ひょんなきっかけから長年勤めた会社を5年前に辞め、会社中心生活からどっちつかずのかけもち生活をしている。大学生と大学講師、社団法人の役員と3つの顔を持ち、時計をみながらそれぞれの顔に変身している。電車で移動中にその気持ちの切り替えをしているのだが一番メインになる本当の自分は一体どれか? 窓ガラスに映る姿を見てふと考えることがあるが分からなくなる。それぞれがその場に浸ると楽しいし、没頭してしまう。

 〈現在のかけもち〉
 非常勤講師・・・・近畿大学、京都学園大学、桃山学院大学、中部学院大学
 学 生・・・・・・・・大阪市立大学 商学部5回生
 役 員・・・・・・・・社団法人情報科学技術協会 評議員 西日本委員会副委員長
 その他・・・・・・・・日本経済新聞社 日経テレコン 情報活用セミナー講師

 仕事としての大学講師は非常勤という非常にファジーな立場で当初はカルチャーショックの連続だった。学生や仕事に関する情報が少ない、事務的な確認や案内が不充分、自分の拠点となる居場所がないので身の回りのかばんやコート、テキストや配布資料など一切合財の大荷物を全部自分で講義室へ運ばなければならない。一般のセミナー講師をすれば誰かがすべてセットしてコンピュータの動作確認も済んで丁重に迎え入れられるのにこれほどまでに劣悪な仕事場があるのかとつい会社時代の常識と比べてしまう。中でも研究費や書籍代が一切支給されないのでブラッシュアップは全部自前で僅かな報酬の中から捻出しなければならない。それと病気や怪我をすれば最悪、講義のピンチヒッターの登板はないので、高熱が出ても足を引きずってでも休めない。1コマ90分の講義に何時間もかけて準備して講義に臨んでも、だらだら遅れて教室に入ってくるのやおしゃべりを続けるのやそれを厳しく注意しないことにクレームをつける学生やらマナーまでいちいち教えないといけないのかと深いため息がでる。社会に出たら困るのにと思いながら時々注意する。
 とはいえ慣れは恐ろしいもので5年もこんな環境に身を置くと受動的になってしまう。振り返ってみると5年の間に大阪を中心に西は岡山県から北は岐阜県まで10の大学で青春の真っ只中のエネルギー溢れる学生と向き合ってきたわけだが、彼らの将来設計に役に立つ動機づけはできたのか、単なる知識や情報伝達に終わってないか反省するところである。劣悪な職場環境でも続けているのは、一人でも多くの若者に「情報に関わる仕事」に興味を抱いてほしいという願いからである。
 最近は少し余裕がでてわずかな時間であるが学生との交流を感じるようになった。冬に気管支炎に悩まされ講義中に咳が止まらず涙を流していたら学生がそっとのど飴をもってきてくれたことがあった。その優しさに違う涙が出てしまった。男子学生だった。
 またある時、卒業式直前に大学図書館に司書として就職した学生の体験報告を紹介したら、その後の教室の空気になんとなく凛とした雰囲気が漂っていた。もっと丁寧に学生と関わる時間を持つことができればなと思いつつ、そうもいかずに今度は自分が学生として講義を受けるために、電車に飛び乗り気持ちを切り替えて大学へ向かう。

 学生としては夜間大学なので現役世代が8割、社会人が2割の構成でバラエティに富んでいる。親子ほど年齢差のある中で上手くコミュニケーションが図れるか不安であったが、会社時代よりもその差を感じない。お互いに気軽に話ができノートの貸し借りや座席の確保や試験対策を一緒にやっていける。なんといっても英語や数学は現役の若い友人にお世話になることが多かった。不思議なことに一緒に勉強すると消えかかった記憶がよみがえり、数式の意味が理解できるようになったことがある。記憶力や新しい事柄の吸収力は衰えるが、考える力はいくつになっても余り変わらずいつまでも現役であることがわかった。大学で学ぶことが楽しいと感じている。
 大学の経営学の講義では長年会社で働いていた時間が、既に日本の経済史として語られている。つい最近まで自分が会社の中で体験したQCサークル活動や終身雇用制度の中での人間関係や職場の慰安旅行などが過去の日本企業の典型として扱われてショックを受けた。会社の経営手法が学問的な理論にも裏付けられていることも何か不思議な気がした。いつも上司の話は業績を意識させるものばかりでアカデミックな世界とは無縁と思っていただけに。
 大学では講義を通じて新しい知識の吸収も面白いが、先生方の授業の進め方や試験問題の出題の仕方にも興味を抱く。受講しながらこれは自分の仕事にも使えるネタかどうか判断することが多い。ゼミでは若い人が多い少人数グループで担当教授も若くざっくばらんな方なので議論が白熱するとつい自分が先生の口調になってしまうので注意しなければと自戒している。

 教える立場と教わる立場を同時に体験することはお互いの気持ちが理解できていいのだが、授業のスケジュールが大体よく似ているので、試験問題を作りながら自分の受験対策やレポート課題をしなければならず、パニック状態になる。試験の真っ最中に成績をつけるのだけは早く逃れたい。

 昼も夜も大学という若いエネルギーに満ち溢れた環境であるが、本で重くなったカバンを肩にかけ軽装で時間におわれる日々から脱出し、おしゃれをしてシックな大人の雰囲気が漂う世界への郷愁も時折湧いてくる。

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暮 靄

大谷 明史

――「図書館か、好し」と (某氏の回文)

 日が傾きかけている。図書館の喫茶室。着古した服の老人が、直ぐ脇の席から話しかけて来た。此方も着古した服の老人であるから、風采の度合は似たようなものである。
 ――回遊魚は四六時中休みなく泳ぎ続けるそうですね。
 唐突の事に、「はあ」と気の無い返事をする。老人の方は、此方の反応などどうでも良いらしい。

 ――四六時中休みなく泳ぐ、と聞けば、まあ「御苦労様」と犒ってやりたくなります。でもね、人間だって同じ事だと思いますよ。いや、慥かに人間は休息します。睡眠も摂ります。眠っている間、「自覚的な意思で考える」という意識作用は休止します。然し、自らの自覚的意思を超えた、無自覚的意識はその間にも活動している事でしょう。自覚的意識の底には、水面下の氷山のように、巨大な無自覚的意識が不断に活動しているのだ、と思いますよ。尤も、水面上と水面下との境界は、氷山みたいに鮮明ではないようですが。何故そんな風に思うのか、と問われても、学者のように巧く説明できませんが……。まあ、そう思ってしまうから、そう思うのです。勿論「そう思う」と言うのは自覚的意識の範囲内での話です。
 さて、意識の活動は、自覚的のものであれ、無自覚的のものであれ、常に身体活動と連動しています。どちらかが他方を誘発すると言う訣ではない、同時に生じる、いや、生じると言うより連動しつつ変化する、と言う事でしょう。其処で、人間とは「自覚的な意識活動並びに身体活動」と「無自覚的な意識活動並びに身体活動」の総体である、と……いやまあ、そんな事は言われなくとも当たり前の事ではありますが……兎に角一応そのように確認しておきましょう。
 処で人間の意識も身体も、其処に在るのは「現在」と言う時間的枠組みの中に於いてのみです。然し、人間は、其の時間的枠組みを、部分的にもせよ、超える方法を得た。それは「記録する事」の発明に依ってです。勿論「記録」の誕生の大前提は文字文化の確立でありますし、もしそのプロセスを考えるのであれば、「文字と言語」、そして「言語と意識」の問題を併せて考える必要があるでしょう。特に、言語に就いて考えるに当たっては、その伝達領域たる社会の視点で、謂わばマクロ的に把えるか、或いは意識主体たる一個の人間の視点で、謂わばミクロ的に把えるか、などの問題もありますが、此処ではこれらの、言語に関わる問題は後回しにして、先を急ぎましょう。
 敢て大雑把に言いますと、「記録する事」に依って、人間は「現在」と言う時間的枠組み(「時間的制約」と言うと、現代では「期限」の意味が含意されてしまうので「枠組み」と言う事にしますが)を、或る範囲内では克服し得るようになった。そしてその「記録」には、人間の「意識活動から生じた記録」と「身体活動(即ち「行為」)から生じた記録」とがある訣です。「意識活動から生じた記録」の中、不特定多数の読み手に向けられたものが著作物であり、その中で社会的に意義を認められたものは出版物になって、更にその中の一部は図書館に保蔵されます。一方人間の「身体活動、即ち行為」もその実施過程で様々な文字表現を生み出します。そのような「行為から生じた記録」は通常「文書形態の記録」として、その行為の主体に属する保存装置、即ちアーカイヴズに保蔵されます。現代では、社会的に意義の大きい行為は、その大多数が様々な組織体――行政機関などの公的機関、企業、団体などの民間機関、大学などの教育機関、又、学術・芸術・身体技術などに関わる文化的機関など――を通じて実現されるので、アーカイヴズの大半はこれら組織体の関連施設として設置されている訣ですな。
 いま「意識活動から生じた記録」が著作物であり、「身体活動、即ち行為から生じた記録」が文書形態の記録だと申しましたが、それは、意識活動に就いての記録が著作物であるとか、また、行為に就いての記録が文書形態の記録だ、などと表現内容に依って区分して居るのではありません。世の著作物の大半は人間の行為に就いて述べて居るものでしょう。それは、著作者の意識活動を経由した行為の記録です。申し上げて居るのは、飽く迄記録の発生時に、意識活動を表現したものか、それとも行為の過程で作成されたものかと言う、由来上の区分の事です。
また、行為に伴って生じた「文書形態の記録」も出版される事があります。それらは出版物として一部が図書館に保蔵されますが、出版物は凡て複製品です。正本(或は原本記録)を保蔵するのは、基本的にアーカイヴズの役割です。
 こうして著作物を保蔵する図書館や文書形態記録を保蔵するアーカイヴズと言う仕組みを通じて、人間の意識活動も身体活動も時間的枠組みを超えて未来の社会に伝達される訣ではありますが、然し、実は先刻言ったように、それが可能なのは、意識や行為の中の「自覚的部分」に限られます。意識や行為の無自覚的部分は時間的枠組みを超えられない。即ち其処には常に現在しか存在しない訣です…………

 老人の言葉は延々と続く。別段此方の相槌を求める気配は無い。何時しか眠りに落ちた。

 夢の中で自宅に居る。家人は出掛けているのであろう。静かな夕刻。有難い事に、急ぎの宿題は無いようだ。珈琲でも沸かすか。
 卓上にメモ風の紙片がある。家人の手跡ではない。こう記されている。

「(自覚的)意識活動(思考)―――著作物―――――出版―――図書館
 (自覚的)身体活動(行為)―――文書形態記録――移管―――アーカイヴズ」

 何やら彼方から低い声が聞える。紗を透かしたような別次元からだ。例の老人の声だ。実の世界から微かに伝わって来たらしい。

 ――――人が自らの意識内容を表現する時、その意識内容を其の侭言葉にする訣ではないでしょう。自ずと受容する側の人の意識を考慮して、表現に補正を施す事でしょう。行為の記録の場合は、作成時に想定された受容者と、アーカイヴズでの閲覧者とは異なるので、単純ではありませんが、当初の受容者(その行為の関係者)の意識を考慮して表現に工夫がなされている事は十分あり得ます。表現結果に内在する虚と実との識別は、受容者の見識、批判能力に委ねられる事になります。然し、不完全であるのは承知の上で、人は「現在」と言う時間の枠組みを超えたいのだ。「現在」とは絶えざる顕現であると同時に、絶えざる消失だから…………

 自宅の居間の情景が急に薄らいで、我に返る。図書館の喫茶室である。隣席で話し続ける老人の外に人影はない。窓外に闇が立ち込めて来た。程なく閉館時刻だ。
 先刻まで中庭の見えていた大きな窓硝子に、今は喫茶室の内部が映っている。その中に、目の前の老人の姿は………
 映っていない。窓硝子には、老人の掛けている筈の椅子の背が、空席であるかのように白く反射している。

 卓上の伝票を掴んで立ち上がる。老人の声は途切れない。
 ――――人間の意識活動と身体活動とは、本当に時間の枠組みを超えて伝達し得るのか。それは「現在」の人間の自覚的意識の内側での錯覚に過ぎないのではないだろうか。然し、錯覚にも意味があるのだ。
 時間への対応装置として、図書館やアーカイヴズが其処に「在る」と意識される限りは………………

(平成十九年五月)

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図書館の新しい活動としての「発現」―収集と蓄積と検索から表現への飛躍―

戸田 光昭

一、はじめに
 今年(二〇〇七年度)のアート・ドキュメンテーション学会(JADS)年次大会のテーマは「発現するドキュメンテーション 蓄積と検索から表現へ」である。六月二三日から二四日にかけて、国立新美術館で行われる。この『ふぉーらむ』第四号が発行される頃には終わっているであろう。この大会で使われた「発現」するという言葉が興味深い。しかし、この言葉は特別な用語ではなく、普通の国語辞典にも載っていることばである。
 辞書には次のような定義が記されている。『新明解国語辞典 第五版』では「発現とは、(今まで十分に知られることが無かった事物が)明確な形を取って認識されるようになること。」『講談社カラー版日本語大辞典 第二版』では「発現とは、ある現象が現れ出ること。現われ出すこと。」とある。英語ではAppear, appearanceといい、フランス語ではapparitionという。

二、情報収集と創造活動の「見える化」
 私達はなぜ情報を集めるのであろうか。「人間は情報を食べる動物である」という表現もあるが、食べるだけではない。情報を集め、咀嚼し、自分の栄養分とした後に、これをもとにして、創造をするのである。しかし、創造活動はこれを見える形にしなければ、他者には認識されない。いわゆる「見える化」(可視化)である。そこで、表現することが重要になり、学校でも「プレゼンテーション法」「パフォーマンス論」などが授業科目として定着しつつある。しかし、単なる「表現」ではなく、「発現」という考え方が新しい。

三、図書館の役割の変遷
 図書館はこれまで、収集と蓄積と検索の部分を受け持つ施設であると考えられてきた。歴史的には、最初は収集と蓄積だけであり、利用者がかなり狭く限定されていた時代は、これでよかった。しかし、利用者の範囲が広がり、誰でもが図書館を利用するようになるにつれて検索機能の必要性が大きくなり、収集・蓄積・検索となった。「情報検索」という言葉も最初は、情報の蓄積と検索(information storage and retrieval)と言われていた。
 図書館のこのような役割―特に収集と蓄積―の重要性は、つぎのような事例をみても明らかである。昨年度の図書館サポートフォーラム賞を受賞した松岡享子さんは、受賞の挨拶の中で、「・・・何とかして児童文学で論文を書きたいと思ったのですが、その頃はもちろん大学で児童文学など講じておりませんでしたから、仕方なく先生にはつかないで、ほとんど一人で論文を書いてしまったのですけれど、その時に、どういうわけかわかりませんが、大学図書館に、英文の児童文学関係の参考書がかなりたくさん揃っていたのです。」と言っている。
 図書館は、特定の利用者だけを意識するのではなく、それぞれの図書館の収書方針に従って、収集と蓄積を行ってきた。利用者はそのコレクションに触発されて、勉学や研究に励むことができるのである。このような恩恵に与かって、多くの学者や研究者、芸術家、小説家、評論家などが研究成果・業績・創作活動を活発化してきたのである。しかし、現在では、既存の図書館の役割は低下し、最も頻繁に使われる大衆図書館はインターネット(ウェブサイト)であると言えるかも知れない。このような時代にあっては、図書館の役割が従来と同様でよいというわけにはゆかない。

四、図書館の「発現」活動

 「発現」ということばは、このような背景から生まれてきたと言ってもよい。図書館がドキュメンテーション活動を行うということは、高度成長期に専門図書館で流行した「能動的図書館」にもその源流の一端を見ることができる。しかし、能動的図書館活動は利用者を待つだけではなく、利用者へ積極的に働きかけようとするだけのもので、蓄積と検索の範囲内の活動に過ぎなかった。これに対して、発現というのは、創造的活動を自らが行うということに通じるものである。図書館は利用者のために収集し、蓄積し、検索するだけではなく、発現もするのである。伝統的な考えでは、図書館員は図書館の資料を使って創造活動、例えば研究活動を行ってはいけない。研究者ではない、図書館員なのだから、というのが一般的であった。それが、研究職あるいは専門職とされている学芸員との大きな相違であるともされていた。しかし、今後は、この考え方は通用しない。この考え方では、図書館の存在は危うくなるばかりである。

五、新しい図書館の姿―国立新美術館アート・ライブラリー―への期待
 国立新美術館は収蔵美術品を所蔵しない美術館として発足した。従って、英語名称はNational Art Centerとなっている。そしてこの美術館の唯一の所蔵品と言えるものがアート・ライブラリーの図書・資料である。アート・センターの情報センターであり心臓部として機能することが期待されているのである。心臓部であるとすれば、そこには、既成の情報だけではなく、国立新美術館独自の情報がなければならない。それを創造・制作していくことが求められているのである。このような傾向は、今後、多くの図書館で強まってゆくであろう。最初はアート・ライブラリーのような専門図書館から始まり、大学図書館、学校図書館、公共図書館へと広まってゆくであろう。発現の形態として、まず出版であるが、だれでも参加可能な、例えばブログやウィキペディアなどもその一つの形となるであろう。                 (二〇〇七年五月二四日)

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表紙画事件

末吉 哲郎

 渋沢栄一記念財団の機関誌「青淵」〇七年五月号の表紙に小生の油絵「中之島公会堂」をのせていただいた。同財団のスタッフがグループ展に出品した小生の絵を見て、推薦していただいたのがそのきっかけである。
 この「青淵」誌、調べてみると創刊は一九四九(昭和二四)年であって掲載誌は六九八号を教えているが、その前身の「竜門雑誌」は創刊が一八八六(明治一九)年であって通算号数は一三七五号に達している。わが国で最古の総合月刊誌は「中央公論」(前身は反省会雑誌)といわれており、その創刊は一八八七年であるからこれに匹敵する歴史をもった月刊雑誌である。

 その歴史ある雑誌の表紙に小生の絵をのせてもらうのはそれだけで光栄であるが、毎号の表紙に登場する絵は財界人で絵を趣味にしている方がよく出品していることでも有名である。調べると、小山五郎、藤山愛一郎、白根清香、安西 浩、酒井杏之助などの経済人や銀行トップの方々がずらりと並ぶ。ただしプロの画家は登場していない。それがこの雑誌の方針のようである。
 何はともあれ大変な雑誌に小生の絵をのせていただいたものである。そして絵のテーマである中之島公会堂は実はこの雑誌の主唱者である渋沢栄一氏と深い関係があったのである。そのことを小生は余り知らなかった。
 中之島公会堂は現在でも大阪を代表する建物で、その赤煉瓦の偉容はわが国を代表する公的な建築である。中之島東端に位置するこの建物は、大正七年、大阪市立の公会堂として竣工した。当時から赤煉瓦と花崗岩で構成されたネオ・ルネッサンス様式の壮麗な建物は全国で最も美しい公会堂としてもてはやされた。戦災を免れ、幾たびかの修復を経て現在に至っているが、創立当時の形は保存されており、隣接する府立図書館、東洋陶磁美術館等と共に市民が集う文化ゾーンの中心的建物として健在で、川面にその美しい姿を映している。
 公会堂は大正デモクラシーを支えた全国の論客の舞台となり、海外のオペラのわが国初演やシャリアピンの演奏会など、多彩な文化活動の拠点として戦前から市民に愛されてきた。
 ところでこの公会堂は大阪の実業家 岩本栄之助氏(株式仲買人、大阪電灯常務等歴任)の寄付によって建設されている。同氏は明治四二年の渋沢栄一を団長とする渡米実業視察団に団員として参加したが、米国各地において実業家が公共事業への寄付などを通じて社会に積極的に貢献しているのを見聞し大いに影響を受けた。そして帰国後、大阪市にこの公会堂建設のため当時の金額で百万円を寄付した。
 渋沢栄一氏はこの寄付について当局に斡旋の労をとり、定礎式にも出席している。
 小生は大阪勤務のとき、仕事で公会堂をしばしば訪れたが、この美しい建物にひかれ、休日などスケッチをしたりした。実は大阪在勤のとき「酒ばかり飲んでいてはあきませんぜ」と知人のすすめもあり、油絵をはじめた因縁がある。上達は覚つかないが、趣味を通じて人間関係が広がったり仕事の役に立つこともある。
 またこの「事件」を通じて渋沢栄一の多彩な活動の一端にふれられたことはよろこびであった。渋沢は役所を退官後、第一国立銀行を設立、王子製紙、東京瓦斯など五〇〇におよぶ会社を設立し、また東京商法会議所、東京銀行協会、手形交換所などを組織して財界の指導的役割を果たしたが、一方この大阪公会堂や社会公共事業にも力をそそぐなどスーパーマンぶりを発揮している。
 「青淵」誌は渋沢栄一の幅広い事績を紹介し、顕彰することを目的としているが、創刊から一二〇年に及び一四〇〇号に達しようとする歴史はこの偉人の卓越した業績の底知れぬ幅と深さをあらわしているといえよう。

 この渋沢氏に関する著作・伝記資料は「日本の実業家 ―近代日本を創った経済人伝記目録」(日本工業倶楽部編、日外アソシエーツ 二〇〇三.七刊)に詳しいが、併せて一九一点が紹介されている。明治・大正・昭和そして平成の現在まで研究家があとを絶たないのは他の追随を許さず、その偉大な足跡は日本資本主義の発展そのものである。
 渋沢が影響を及ぼした人物もおびただしいものがあり、大阪の岩本栄之助もその一人である。中之島公会堂建設資金を寄付したあと、大阪電灯(関西電力の前身)の役員に就任するわけであるが、またもとの株式取引所にもどり活躍する。しかし国際情勢の激変や相場の取り組みにより大損の結果、彼は公会堂完成間近の前年、ピストル自決をとげている。公会堂は予定通り一九一八(大正七)年予定通り完成し、岩本氏の四才の長女の手により引継をあらわす鍵が大阪市長の手に渡され落成式を了えている。
 いま一人、渋沢氏との関係で忘れてならないのは、西の渋沢と称された五代友厚のことである。同氏は明治政府退官後、実業界に入り、大阪を中心に活躍する。明治十一年に大阪商法会議所を設立して会頭となる他、紡績、製鉄、鉄道、貿易商社などを手がけ多彩な活動をしている。両者の交友関係についての文献や五代そのもののドラマチックな足跡を個人的に調べているが、渋沢史料館にその密接な交友を表わす手紙の往復書簡がある旨を館長から教わり、数通の手紙の原文コピーをいただいた。五代は鹿児島藩士、幕末生麦事件に発する薩英戦争で英国の捕虜となるが、この戦役を通じイギリスや列強の学ぶべき国情を知り、薩摩の少年海外使節団を組織して欧州視察を行なっている。この時の参加者が明治政府の要人として活躍するのであるが、その波乱に満ちた人生はナゾの部分も多い。
 このように今回の表紙画事件、小生にとっては絵以外にアーカイブ的な興味を与えていただき感謝している。図書館勤務経験があったりアーカイブ団体に関係しているせいで、そちらの方に興味が向き、これを機に絵に専念しようとの気がおきないのは困ったものだが「青淵」誌の発展を心から祈っている。
(二〇〇七・六)

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森有正の周辺―母、伯父―

 恵光院 白        

はじめに

 大分以前から筆者は、森有正の年譜、文献を編んできたが(後注一二)、その途上、当然ながら縁者など周辺の事情も調べてきた。拙文もそのひとつであり、あるまとまりになったので以下のように綴り、諸賢にご高読を願う次第である。

 一九八六(昭和六一)年九月、『空の先駆者・徳川好敏』が奥田鑛一郎氏著で出版された。筆者の住む所沢市に縁の深い好著である(以下『同前書』と略記する。後注一A参照)。『同前書』は、徳川好敏についての著者・奥田氏の地道な調査や資料の読み込みが窺われ、好敏の若き日から晩年までの生涯が活写されている。
 これに先立つ一九八一(昭和五六)年一二月、『一本の樫の木・淀橋の家の人々』が関屋綾子氏著で出版された(以下『同後書』と略記する。後注二参照)。『同後書』は、著者・関屋綾子女史の親族数人を挙げて、随想的伝記集とでも言えようか。
 双方は当然ながらそれぞれ完結した二書を成していて、直接の関連はなく、文芸書とも言いかねる。おそらく読者層も異なる人々であろう。しかしその生涯あるいはその周囲を辿る姿勢には、双方見るべき真摯な態度が感じられる。小文では、この二書を中心に他の関連図書、資料をもふまえて、それらの中で語られた事柄や人々を、特に好敏とその妹・保子とを、すなわち功成り名を遂げた兄と、慎み深く慈悲に生きた妹とを対比させつつ、或る視点から綴ってみたいと思う。

 はじめに、双方の書からの主要人物を素描してみよう。
 徳川好敏(・ヨシトシ)を『同前書』から略述するならば、徳川篤守(・アツモリ)の長男として一八八四(明治一七)年七月二四日に生まれた(好敏本人は六月一五日と記している。後注八)。彼は、我国の航空史の文字どおり先駆者であって、所沢を全国にとどろかせ、本邦航空の発祥の聖地とした、実にその人である。後に航空技術系、同教育系の陸軍中将、陸軍航空士官学校で敗戦を迎え、伊勢に引退、彦根などに住む。晩年は新航空界の役職を経て、一九六三(昭和三八)年四月一七日病没した。享年七八歳であった(『同前書』、後注一B)。
 一方、関屋綾子(・アヤコ、旧姓・森)の家系を『同後書』から一読するならば、森有礼が岩倉具視の娘・寛子と結婚し(双方の初婚時の子女は省略、後注一一参照)、その子息が森明。明は長じて徳川篤守の娘・保子〈ヤスコ〉と結婚し二児、森有正、森綾子を得た。綾子はのち結婚して関屋綾子、すなわち『同後書』の著者という次第である。『同前書』、『同後書』を通読すれば、徳川好敏と森有正、関屋綾子兄妹とは、母・保子(旧姓・徳川)を間に置いて(母方の)伯父―甥、姪の関係にあることが分かってくる。
 以下、文中は敬称を略し、新かな、常用漢字、満年齢表記でつづってみたいと思う。読者の皆さんは、この人々の周辺にあったはずの、当時の様々な生活、物事、言葉や意識等、とりわけその時代の固有の生き方や、はては時代を遡っての階層なども思い浮かべつつ、読み進まれんことを。なお軍関係の記述は全て一九四五(昭和二〇)年の敗戦時までの組織や名称、階位で、現在では全て「旧」がつくものばかりである。

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 さて、徳川篤守、つまり徳川好敏、保子の父やその一家、兄妹たちのこと。ここでの徳川という姓はちょっと説明が必要である。いわゆる徳川御三家、紀伊、尾張、水戸の各家とは完全に別個に、八代将軍吉宗の治世、将軍職任用のために三卿という三家を新たに興した。この三家を、領地(従って領民も)や武力を持たない内戚とし、江戸城の中の田安門、一ツ橋門、清水門の各門内に住まわせ、高位の格式を与えた。篤守はその内の一家、清水門系の徳川氏第七代目の当主(無論、明治以降は徳川時代的な権威も格式も無くなったが、精神的な見方、逆にある種の零落感も、あったと推測される)で、一八五六(安政三)年生まれ(水戸家からの養子)。米国留学ののち小笠原登代子と結婚。いくつかの官職につき、旧・高田馬場付近(後述を参照)の広大な屋敷に住む。その子供たち、異母兄弟、姉妹をすべて合わせて九人だったという。
 これらの兄弟、姉妹の名、生年などを、『同前書』、『同後書』や他の資料から分かる限り示してみると、
 ・好敏(長男)、一八八四(明治一七)年六月(又は七月)生まれ、詳細後述。
 ・[名・不明](長女)一八八七(明治二○)年をふくめてそれ以前生まれ。好敏より年長か年少かも不明。成人ののち朽木氏(クチキ。陸軍技術将校、毒ガス研究に従事、男爵、若くして死去)に嫁いだ。没年不明。
 ・保子(次女・未確認)、一八八八(明治二一)年六月生まれ。詳細後述。
 ・鈴子(篤守の四女)一八九一(明治一四)年一二月、保子の妹。長じて小原十三司牧師と結婚、一九七六(昭和五一)年四月に没(後注三)。
 ・守(好敏と保子の弟)生没年不明。鈴子の兄か弟かも不明。好敏の妻(旧姓・松平)千枝子の妹・すえと結婚した。つまり或る一家の兄弟と、別の一家の姉妹とが二組の夫となった形である。
 以上のように、全部で九人の兄妹のうち、輪郭だけでも分った兄妹は五人に過ぎない。

 これら兄妹九人は、高田の馬場の広い邸宅(現在のJR高田馬場駅付近ではなく、早稲田大学の現・中央図書館(旧安部記念球場)の北東側、都電荒川線の早稲田停車場あたりから明治通り方向への一帯)で生を受けて育ったものの、家族の不運に見舞われる。正確な年代は先の『同前書』、『同後書』には示されていないが、おそらく一八九二(明治二五)年から一九〇二(明治三五)年にわたって、この名門徳川家は当主篤守の不祥事で一家は崩壊する(『同前書』。以下、後注四でも確認)。この事件について『同前書』は、篤守の性格が大らかであったこと、米国留学中に自由平等の考え方になっていたこと、それゆえ門地や爵位(伯爵を授けられていた)、名誉欲、物欲などに淡泊であったことなどを挙げている。これらが災いして訴訟事件に陥れられ、多大な債務を負う羽目となった。結果として、三万数千坪という家、屋敷は人手に渡り(一八九九・明治三二年、同前)、篤守は爵位返上(同年、同前)、徳川一門から大非難を受けることになる。特に妻の実家・小笠原伯爵家の強硬さのゆえに妻・登代子は実家に戻され、夫妻・子供ことごとく生き別れ、篤守は一言も弁明せず、裁判後、徳川の名を汚さぬようにと、某家へ養子手続き後に改姓、禁固刑に服したという(一九〇二・明治三五年、後注四)。長男・好敏の双肩に一家の全てが負わされる事となった、と記されている(『同前書』)。
 『同後書』(一四八頁)は事実関係にはふれずに、
 …丁度母が華族女学校を卒業する少し前に母の実家に起った不幸な出来事があったときいている。[中略]昔の華族の家の中によくあるような、家来たちまでそれぞれの君だちにつき添って党派的な動きを含む、そんな一連の事件のようにきく。その中で実際にはどこまで責任を問われる事なのか、[中略]ほんとうの事は誰にも分らないとも言えるかと思う。その事柄をきっかけにして母の母は生家の小笠原家にもどってしまったし、子供達は、それぞれ別々にいろいろな家に身をよせる事となったようである。…
 と記している。
 華族女学校とは、平成時代前期までの学習院女子短期大学(二○才卒業、近年まで新宿区明治通り、早稲田大学理工学部キャンパスの斜め左前に在った)の前身である。女学校とはこの当時の男子系中学校と並立するものであるが、様々に学校制度が変遷するので現在とは異なり不明である。『同後書』からの書き抜きに従って仮りに徳川保子の年齢を早めて一六才卒業だったとすると一九○四(明治三七)年となる。その年、『同前書』の年譜から書き出してみると、好敏二○才、
 …陸軍工兵少尉。近衛工兵大隊附、同時に小隊長として日露戦争に従軍、…
 となってくる。
 すると『同前書』の本文二九頁の、
 …二年間の中央幼年学校生活が終…
 る以前の事件で、それは『同前書』の年譜(二六三頁)では、一九○二(明治三五)年、好敏一七〜一八才にあたる時期以前の事件、という記述と前後逆となってしまう。幼年学校とは陸軍軍人になるための、中等学校に相当する組織であり、徳川好敏、保子は四才の開きがある。
この年代逆の誤差は、徳川保子の女学校卒業を右の一九○四(明治三七)年とした為に、時の流れが逆になる原因となったはずで、保子の卒業より大分以前の事ではなかろうか。小文では先記したように、この事件の最終記録が一九○二(明治三五)年と仮定して、先に進みたいと思う。

 さて徳川好敏の一身上の事は別にして、公的な経歴を『同前書』から追ってみよう。彼は航空・技術将校の道を直進する。軍事気球隊を経て一九一○(明治四三)年五月〜一○月の間、飛行機操縦術修得、飛行機の選定、同購入の命を帯びて僚友日野熊蔵大尉と共にヨーロッパへと旅立つことになる。旅を前に律儀な好敏は、気難しい徳川家宗家(徳川の世を倒した新政府、いわばかつての敵方に参画する事への非難か、と筆者推測)や一門に説明・説得に回る。最後に、
 …旧臣の家(擬制の養子先か、引用者推測)で隠遁に近い生活をしていた老父・篤守に会い、事情を説明して承諾を求めたところ、一途な息子の心境に感激した父は諒承はもとより、涙を流して激励し、…
 云々(『同前書』五五頁)、であったという。
 好敏は一九一○(明治四三)年四月にフランスに向けて日本を出発(日野大尉はドイツへ)。パリ北方五○キロの小都市エタンプ(出典ママ。Estamps、現在の地図で筆者が確認したところ、パリの南東である。同地に飛行場あり)で約半年を過ごして帰国する。
 同年一九一○(明治四三)年一二月、徳川好敏、二七才、大尉。代々木練兵場で我が国初の公開初飛行に成功。僚機の日野大尉と共に全国に令名を博した。この時の見物人は一○万人とも言われる(現在のNHK本社付近から明治神宮、代々木公園一帯)。因みに二一世紀の近年も、欧文での紹介がなされている(後注一○)。なお後注四の「読売新聞」の記事によれば、この実験飛行の大観衆の中に徳川好敏の妹・鈴子も見物していて、二〇才、学習院在学と記されていた。また僅かな時間差ながら、日野大尉の方が実験的にはすこし早くプチ成功したという(後注四、記事)。日野大尉はこの時三三才、いわば天才肌の技術将校であったがために、官僚的な軍人社会で生きることを潔しとせず、のち四○才で退役。しかし民間にあってもその技倆を生かすことが叶わず、悲惨な晩年を送ったとされる(『同前書』)。…閑話休題。
 以後、徳川好敏は創設間もない所沢飛行場(現・所沢市内、航空公園一帯)で、臨時軍用気球会(旧陸軍の。参考・気球隊とは当時の陸軍のやや古い作戦中に、敵状を上方から偵察するための部門。後に実質的には飛行機の開発とその操縦法の研究)に所属し(一九一四・大正○三年まで)、所沢に住み、教育、訓練、研究、開発に従事した。飛行機の徳川、飛行場の所沢の名が日本中に知れわたるのはこの時期である。軍関係はもちろん、著名人や報道関係者も、所沢飛行場に詣でたという。一九二一(大正一○)年より再び、好敏は所沢で、教官・研究部長を経て、旧陸軍の航空兵科の創設へと関わってゆく。

 さて一家崩壊の後、徳川好敏の四才下の妹保子は、長姉(後の朽木夫人)に誘われて、ブラウンロウという英国の宣教師婦人の営む女子寮に寄宿することとなる。この女子寮の所在地は不明。武蔵野の雑木林、人里離れたところ、人喰川[現・玉川上水のことか、引用者]のほとりの西洋館、と『同後書』は記している。この青年期の保子はピアノやヴァイオリンを学び、その淋しさを慰め、またこの時期にキリスト教の信仰に入った、という。
 兄・好敏が代々木で日本初飛行を成し遂げて程なく、一九一一(明治四四)年初頭、二三才の徳川保子は、先記の森明と結婚する(双方同い歳)。徳川好敏はこの結婚式に出席したであろうか、双方の記録はこの細やかな祝い事には触れていない。森明、保子の二人は、同一九一一(明治四四)年一一月三○日には長子・有正、一九一五(大正四)年に九月二日には次子・綾子を誕生させる。

 ここで保子の夫・森明を紹介してみたい。
 森明の伝記(後注五)に拠れば、彼は一八八八(明治二一)年五月一二日(森有礼、四一才)に誕生したものの、翌年二月一一日の有礼暗殺後は、病弱の身を母・森寛子(ヒロコ)によって育てられる。ほとんど独学で成長し、一六才の時に植村正久牧師の下でキリスト教信者となるべく洗礼を受ける。介する人があって徳川好敏の妹・保子との結婚に至った、とある。この明の全生涯、とりわけ彼の成人後の歳月は、キリスト教の我国における先駆的論客、実践者であった植村正久(一八五七・安政四年〜一九二五・大正一四年)の高弟となって伝道に従事。特に中渋谷に日本基督教講話所(のち中渋谷基督教会、現在の日本基督教団中渋谷教会、後述)を開いてからは、ここを拠点に多くの人々に福音を授け、門人・研究会を組織し、病身をおして宣教に身を挺した。一九二五(大正一四)年、三七才で死去。彼の熱誠は周辺を大いに感化し、その死後は、特に戦後の信教の自由がひろくゆきわたる時期以降には、日本基督教団(日本のプロテスタント系最大の教団)系の牧師、信者を多数門下から輩出することとなる。彼等の口から、十字架に死んだキリストさながらの森明像が、一二人の弟子の如き語調で語られている。
 さて、その森明の高弟、清水二郎の記述(後注五。森有正の家庭教師でもあったという)にみられる森保子像は、
 …夫人保子は陸軍の空軍育ての親と言われた徳川好敏中将の妹、また讃美歌作詞者として聞える小原鈴子夫人(小原十三司牧師夫人)の妹にあたる。女子学習院(引用者注、異称・華族女学校)を卒業し、信仰にめざめ、信仰ある人との結婚を願っていて、介する人があってついに森明と出会った。貞淑の人で、蔭にあってよく夫に仕え子女を養育するという風格の人であったが、健康が許さず、家庭の外で働くことができなかった。しかし森明の弟子たちは好んで森家に出入りし、夫人の上品な控え目がちのもてなしを温く心に感じていた。…、と述べられている。
 同後書・『一本の樫…』の口絵写真に、この夫妻の写真二葉が掲載されている。一葉は新婚当初であろうか、初々しく匂うが如き二人、新妻・保子の左手薬指には指輪が見られ、一九一○(明治四三)年頃と示されている。同次頁に、姑・寛子と明、保子夫妻の三人の一葉、母堂と敬われるにふさわしい寛子の自然(ジネン)たる表情、明の自信に満ちた顔、それに比べて次子を妊娠していたのであろうか、あるいは産後の一時であろうか、やや着ぶくれした、無表情もしくは疲れた面持ちの保子。写真の説明は一九一五(大正四)年とあり、森綾子の生まれた年に当たる。
 『同後書』にはこの二人の、あるいはその家族の生活が一二三〜一六一頁の間に語られている。中でも一二八頁の記述には、ある興趣を覚える。
 …金色の燭台のついた黒いドイツ製のピアノがあった。父は、あまりピアノは奏かなかったが、ヴァイオリンをよく奏いていた。父がヴァイオリンを奏くと母がそのピアノで伴奏をした。[中略]伴奏の母の方が上手なように思えた。[中略]母はピアノばかり奏いていて、ヴァイオリンは奏かないのに、自分のヴァイオリンを持っていて、大事にしていた。そしてずっとあとで、私自身が大きくなった時、いろいろな話の中で父よりずっと長く、本式にヴァイオリンを習って、父より上手だったことを知るようになった。…、云々。
 この二人の音楽への思い、とりわけ保子の音楽的才能は、二人の長子・森有正へのピアノの手ほどき(長じてオルガンへの道程)、あるいは次子・森綾子、のちの関屋綾子の長子(明と保子の初孫)への保子思い出の愛器ヴァイオリンのプレゼントとなって受け継がれ、さらには森有正没後に彼の演奏によるバッハのオルガン曲LP・三枚、テープ、新しくはCDへと結実してゆく。

 さて、兄・徳川好敏が所沢を中心に大いに活躍している時期、一九二五(大正一四)年に、妹・保子の夫であり、有正、綾子の父である明は三七才で病没する。結婚して僅か一四年であった。続いて一九二七(昭和二)年の金融恐慌、第十五銀行のモラトリアム(預金封鎖、支払い停止。同銀行は俗称・華族銀行、以後、何度もの分割、合併ののち、現・三井住友銀行となっている)に因る森家の家計破綻の危機。まるで好敏、保子兄妹たちの若き日の家庭崩壊の如きものが、その甥・姪の青年前期の多感な時期に再来した(?)観があった。事実、家庭の崩壊は免れたものの、森保子の一家は『同後書』のタイトル、『…淀橋の家』すなわち、現在の新宿の高層ビル群のすぐ南地区にあった自宅を他人に貸して、東京市内や鎌倉などを数度にわたって転居せざるをえなくなった。高齢の姑・寛子、病弱な未亡人となった保子、未だ学齢にある病弱な長男・有正、ガンバリ屋の綾子。四人とも定職はなし、従って定収入もない。しかし保子たちは、折々に様々な人々からの好意を受け(姑・森寛子の初婚時の子息からの援助もあったとされる。後注一一参照)、自らも他に施し、つつましく暮してゆく。そんな日々の生活の中で、保子の父・篤守についての、兄・好敏についての挿話が語られる。『同後書』一五四頁には、
 …ことに若い頃、一連の不祥事の中で、社会の表街道から姿を消した母の父が、ひっそりと千駄ヶ谷の寓居に閑居していた、あの家のたたずまいの中に、人の世のあわれさとでも言うものを、今にして再び思い出す。そして奥の部屋の床の間の横の鴨居の上に掛けられていた、ロンドン時代の祖父の大きな半身写真の立派だった面影を、今も覚えている。頭脳明敏で、精密な事物の相互関係を根本まで明確にして行くと言う性格だった…
 と述べられ、一五一頁以下には、
 …だがおそらく[兄妹たちの・引用者]話として一番母の口から度々出たのは長兄である徳川好敏の事である。日本ではじめて代々木の練兵場で、あの昔風のプロペラ機にのって、何百メートルか飛んだ人である。陸軍の技術将校で、年若い日に選ばれて、フランスの陸軍飛行学校に留学させられた人である。小さな皮製の財布など時々母が見せてくれて、「パリーから飛行機の伯父様が買って来て下さったおみやげよ」と説明した。「伯父様は優等生で、その頭のこまかい事といったらない方です」とよく言っていた。[段落]母のひそかなる誇りを私はいつもその話の中から受けとっていた。母はその伯父を尊敬し、また特に心持の上で親しんでいたようだった。…
 と語られている。
 このように『同後書』では一家の生活は細部において具体的であるものの、全体的には情緒的に語られている。このような背景から、”淀橋の家”はこの一家の象徴的、寓意的意味が込められていた事が見て取られる。

 一方、妹・森保子の言葉で語られた当の兄・徳川好敏の出世は順調である。すなわち、『同前書』によれば、一九二六(大正一五)年、航空委員会議出席のため渡仏、帰国後、陸軍航空大佐昇任。一九二八(昭和三)年、男爵を授けられ、翌一九二九(昭和四)年、所沢陸軍飛行学校教育部長、同一九三○(昭和五)年陸軍少将。一九三一(昭和六)年には長く所沢に住んでいた(家族が所沢にいたか否かは、これらの資料からだけでは不明)ものの、三重県度会郡、明野原にあった陸軍飛行学校の校長として赴任する。その地に家族も転居し、土地の人々はそこを徳川山と呼んで親しんだという。
 一九三四(昭和一四)年に好敏は、武勲と病を得て帰還すると早ばやと退役し、多くの説得があったが、結局予備役に編入となった。退役の目的は他にあったとされる。『同前書』によれば、以前に妹・鈴子のキリスト教入信と教会牧師との結婚を許していたこと、妻・千枝子との結婚後ほどなく彼女の入信、洗礼をも許していたこと、また自らも開発途上の飛行機の操縦と搭乗員の訓練という危険な仕事に挺身し、生死は常に身辺にあったこと、更に一九二三(大正一二)年には関東大震災で長女を失った後自らもカソリックの洗礼を受けたこと、また決定的な動機としてやはり直接に実見した戦争、戦闘の悲惨さであったろう。当時の陸軍、軍人社会とキリスト教信仰との隔たりをも検証すべきであろう。
 この一九三九(昭和一四)年の退役から一九四四(昭和一九)年の陸軍航空士官学校長就任までの間、好敏は通例の陸軍軍人という剛直なイメージからは程遠く、他への慈悲と安寧への語りかけという自らに課した責務をつらぬく。すなわち、航空訓練教官時代に殉職した教え子や、先の日支事変で戦死した部下たちの数百人にも及ぶその命日を該明に記し、その命日には弔文を送り、直接訪問して弔意を表わす、といった生活であったという。軍人が世に権勢を競い、予備役とは言え中将閣下が市井の人々の家を訪問することなど殆んど考えられない時代、他の俗物軍人のよくなし得ないことであった。好敏の人柄が偲ばれる数条である。『同前書』は強調している、
 …一介の草莽の臣として全国を行脚…
 したことの仕儀仕第を、決して作られた美談ではなかったことを。

 兄・徳川好敏が再び現役軍人として召還される数ヶ月前、つまり一九四三(昭和一八)年一二月、森保子の一家は”淀橋の家”を売って、長野県松本市に疎開する。姑・寛子はその年の一一月、天寿を全うし(八三才)、病弱であった長子・森有正は成人ののち元気をとりもどし、妻子を得て東京帝国大学での教職への道にあり、次子・綾子も関屋光彦と結婚し、一児をもうけていた。当時太平洋戦争は既に三年目に入り、東京では強制疎開が始まっていて、森有正も一家の家長の立場にあり、また住居、身辺とは別に、所属の東京帝大・仏語仏文学科の膨大な量の図書群を、地方の然るべき安全な場所(↓松本)に、搬送、保管する任務を負っていた。
松本の住居は関屋光彦、綾子夫妻が手配し、森の親族、つまり森家、関屋家、及び有正の妻の実家・久野家は、あげて松本市に移り住み、有正は東京都文京区(一九四三・昭和一八年六月までは東京府本郷区)の東大前の仮寓と松本との二重生活にはいる。
関屋綾子は母・森保子をまた別の筆で記述している(後注六)。
 …静かな、私の母も、あの松本高校の裏手の洋館に[中略、家族、孫たちと、引用者]過ごした地であった。黙って庭の草ぬきなどをするのが大好きだった母。時々手を休めて、腰をのばして、なだらかな王ガ鼻をながめていた終生静けさを愛して生きた母。…
ここで言う松本高校とは、当時の松本市の東端にあった、のちの信州大学のことであり、現在は同市(戦後の市町村合併で市域は拡大している)の中心部より東方へ約一五分の場所にあって、大学自体はすでに他に移転し、県の森(アガタノモリ)公園となっている。後方つまり東方にゆるやかな山々が連なり、美ヶ原高原の方向が遠望される。参考ながらこの時期、辻邦生もこの松本高校の学生で、関屋光彦教授宅へ出入りしていた。このあたりから、森保子に関する記述は極めて少なくなり、表面に出てこなくなる。
 さてこの時期すでに戦雲は絶望へと暗転していて、一九四四(昭和一九)年三月、兄・徳川好敏は陸軍航空士官学校(修武台、現航空自衛隊埼玉県入間基地)校長として現役に復帰を命ぜられる。六○才であった。翌一九四五(昭和二○)年三月には帝都東京は米国空軍の大空襲を受けて一夜にして灰燼と化し、業火はその入間の地からも望見されたはずである。
 一九四五(昭和二○)年八月、徳川好敏はその地で敗戦を迎える。『同前書』は、好敏の部下将兵への軽挙妄動の戒め、整々粛々たる施設事務の引き渡し、剣を筆に持ちかえての国土再建への訓示、自身の孤影悄然たる伊勢への帰還、を綴っている。以後しばらく日本は武器、兵器は勿論のこと、船舶、航空機の所有はもとより、移動、製造も禁止という時代に押し込められる。
 戦後の徳川好敏一家は、明治時代に入っての旧武家の商法よろしく、漫画的な、泣き笑いの日々、苦労と希望の日々を送る。間もなく伊勢から滋賀県彦根に居を移す。その生活は戦没した旧部下や教え子の冥福を祈り、遺族たちへの見舞いの手紙を認める日々であった、と『同前書』はなおも語っている。のち好敏は一九五七(昭和三二)年まで世の表面に出ることはなかった。旧軍人は唯でさえ肩身が狭く(徳川好敏が旧軍人の公職追放に該当したか否かは不明だが)、いわば好敏不遇の時代である。

 一方、妹・森保子も長野県松本市で敗戦を迎え、すでに孫と過ごす身となっていた。以後一○年間を簡単に記すならば、長子・有正は一九四八(昭和二三)年東京帝国大学[昭和二四年以後は東京大学]助教授を経て、一九五○(昭和二五)年、フランス留学に旅立ち、数年後、パリ滞在のまま東大を辞職する。彼は一九五五(昭和三○)年に一時帰国するものの、母・保子以外の有正の家族は松本を離れ上京する。程なく有正夫妻は離婚する。保子の内孫のうち、有正の次女はパリの有正の許へ、一男は有正のかつての妻のもとへ去り、保子は一人、松本に残される(筆者推測。年長の孫は一九四五年頃、幼くして死去)。森保子が松本に住んでいる間、手塚縫蔵の主宰する松本日本基督教会(当時もその後も永く建物は無く集会のみがあった。のちに和田正氏が牧師。同氏への筆者のインタビューによる。現在は日本基督教団・松本日本基督教会)に参集していたであろうか、なかろうか。
 『同後書』の中で関屋綾子の筆は、一九五七(昭和三二)年に上京してのちの最晩年の母・森保子の身辺の状況を、四六判の小さな図書、約六頁にわたって書き連ねている。『同後書』から保子の言葉を抜き書きしてみると、
 …「わたしは一生、不しあわせだった」…、
 …「わたしなおるでしょうか?」…、
 …「なおらないかもしれないわね」…、
 …「天国は近いところにあるのでしょうね。みんながそこにいるのね。お父様も[後略」…
 全身不随の身で一年八ヶ月の病床生活ののち、本当に静かに眠るが如く永眠した、とその書は記している。保子の亡夫・森明の門下である山本孝・女史は、保子の、この晩年のことを次のように簡潔に記している(後注七)。
 …森明先生の保子夫人は、松本に滞在中軽い脳溢血発作にかかられ、数年後軽快されたので、昭和三二年東京のお嬢さんの関屋綾子様を訪問のため御上京され、その御滞在中に再び倒れられ、半身不随のまま手厚い看護を受けておられたが、三十四[一九五九]年七月二十六日[?、引用者、後述]御逝去、中渋谷教会で山本牧師司式のもとに葬儀が行なわれた…
 この引用には少々注記が必要である。中渋谷教会とは保子の亡夫・明が開き牧した教会(前述)で、この時期、日本基督教団・中渋谷教会(山手線渋谷駅の南口、同線の外側の高台に所在)と称していた。山本牧師は当時同教会を守っていて、孝・女史は同牧師の夫人。また死去した日は右の七月二六日ではなく、六月四日である(確認)。引用と同じ文献の他の頁にも六月四日と記されている。七月二六日は葬儀とは別の追悼記念集会の日ではなかったかと思われる。森保子、享年七一才であった。兄・徳川好敏は、彼女の葬儀に出席したであろうか。諸資料は何も語らない。
 妹・森保子が病いに倒れ、死に到ったこの時期、兄・徳川好敏の晩年に再び舞台が用意される。すなわち、一九五七(昭和三二)年ごろから好敏は、復興途上の我が国航空界からその先駆者として名誉的な役職や、各種のセレモニーにいわば担ぎ出される。一九六○(昭和三五)年秋には、米国航空関係の人々からの公的な招待を喜んで受け、ヨーロッパの思い出の地、フランスのエタンプをも訪れている。喜びを抑えつつ淡々とした文面で好敏は「文芸春秋」誌、一九六一(昭和三六)年一月号にこの一ヶ月にわたる多忙な、感傷的な、空の旅を綴っている(後注八)。
 天地の間の蒼の無限を感じ、敗戦国ながら、また退役ながら、招待国の”中将”待遇に驚き、エタンプの町を懐しみ、宇宙ロケット産業に感嘆し、ライト兄弟の故地を偲ぶ旅であった。フランスに滞在した数日間、彼は、在仏であっても冬の時代の只中に身を潜める甥、森有正と会ったであろうか。諸資料は沈黙している。好敏は帰国後、そのころ以後再び所沢市と関わることになる。つまり国際航空大学校(現在の国際航空専門学校、現・所沢市久米に所在)の名誉校長就任を要請され、固辞したものの関係者の熱心な懇請ののち、その職に就き、所沢に居を移しその死去まで同職を務めた。最晩年、病を得た彼は周囲の勧めで横須賀に転地療養したが、その甲斐無く、一九六三(昭和三八)年四月一二日、同地に没した。妹・森保子に遅れること約四年、享年七八才であった。
 葬儀は東京四谷の聖イグナチオ教会[かつての旧いお堂]で盛大かつ厳粛にとり行なわれた、と『同後書』は記している。おそらく多くの、かつての教え子や部下、旧将兵が参列したであろう。彼らはいま一人の父、慈父を、心の厳父を失ったと嘆息したに違いない。旧同僚、旧部下、旧幕僚が誰一人出席しなかった他の暗愚な旧将軍の葬儀が現にあったという記録と、鮮やかな対照をなす。
 『同後書』の著者、関屋綾子はこの時期、夫君光彦のフランス留学のためパリにあり、好敏の葬儀には出席しなかったのではなかろうか(筆者推測)。
さて続いて、森保子の子息・森有正(一九一一〜一九七六年)の著文から、母親像を追ってみたい。森有正は死後その全集も刊行され、一般に”思想家”と称されているが、「何々についての思想家」とはなかなか決めにくい。また統一的な思想体系を構えたのでもなく、むしろ日々に綴る日記風の随想の中にこそ、深い洞察と遠い標(しるし)を知るのであるが、不思議な事に全一四巻の『森有正全集』、二冊の『森有正対話篇』などの中に、彼が母・保子のことを語る箇所はあまりない。母の葬儀にも、喪主にその名が記されていながらフランスからは帰国していないし(筆者推測)、その死に関する言及もみられない。書かなかったことが意識的だったか否かは判らない。以下、言及の年代順に列挙してみる(後注九)。
 ・保子がキリスト教系教養雑誌「婦人之友」を読んでいること。(『森有正対話篇 T』、四頁)
 ・若い知人の父の死から、死について少考した文中に、森有正の父の死、祖母の死、母の死、[少し後に我が子の幼き時の死]などを挙げ、
 …三つの宝石によって飾られた一つの冠のように、僕の記憶の深い暗闇の内に燦いている。…、
 (『森有正全集 第一三巻』、三二七頁)
 と抽象的に示している。他に、幼い日に両親と共に御殿場YMCA東山荘に行った(父の講演会か。自身も後年、同荘で講演をしている。現・東名高速道、御殿場インターチェンジの東側、東山湖のすぐ側)時の回想、などを確か以前、筆者は読んだことをあったが、今回『森有正全集』を通覧しても探し出せなかった。比較的長い、母に関する記述は、音楽について、バッハ、オルガンについての箇条の中に出てくる。それによると(『同全集 第四巻』、四一三頁以下)、
 ・小学校五年、一○才の時に、母からピアノを教わったこと、
 ・母は教えてくれると言いながら、なかなか教えてくれなかったこと、
 ・「ピアノ教則本」の持つ、いかめしい数学的な楽譜のこと、
 ・バイエルが示す音たちを、指で弾いた時の響きへの感動、
 ・懐かしき「淀橋の家」の、ある静かな午後のこと、…。そして、
 …私に手ほどきをしてくれた母に、限りなく感謝している…
と述懐している。
 有正は一六、一七才のころにオルガンに転向し、長じてパリにあってもオルガンの練習を休まなかった。母・保子が多感な少女期に家族離散と孤独の中、音楽に慰めを見い出したごとく、子息・有正もその中・壮年期の冬の時代、オルガンに向って自身の心と向い合ったに違いない。母への感謝とはこの共通の経験に結ばれていたからであろうか。

 この辺りで、兄・徳川好敏、妹・森保子を並行させてその生涯を追うこの小文の筆を擱きたいと思う。この兄妹の間の行き来や手紙のやりとり、あるいは直接の情感はもはや求めえない。前者はいわば青年期の不遇から劇的な晩年(と言う程でもなかった、と本人は言うであろうが)を全うした。後者は若き日の不如意から脱し、幸福な時を家族と共にあったが、戦後の混乱の中、子供達、孫達への思いや他に言えぬ哀しみが推測される。双方は、軍人、家庭人の違い、男と女という違いはあるものの、信仰に身を置き、周囲の安寧を願いつつ、与えられた場面、戦争という時代、戦後という激変の時を生きた。二人は、右面と左面、或いは名と実といった物事の幾つかの顕れ、いわば姿や影など、この時代の多くの人達のなかの、或る生き方を示していたと言えないだろうか。

 拙文を結ぶにあたって一言添える事を許されたい。筆者は埼玉県所沢市の航空公園に面した中層住宅の一室で、拙文を認めた。徳川好敏が悪戦苦闘しつつ、大空への希望をはぐくんだかつての所沢飛行場の、軍事の時代から平和の時代へと生まれ変わった、実にその地のすぐ傍らである。市役所の窓からは遙か東方に新宿の超高層ビル群が遠望される。旧淀橋浄水場だった一帯で、その南面に”淀橋の家”が在った。現在マンションが建っている。航空公園駅(かの名機YS・11が駅前広場に設置、展示されている)から北西に位置する現・入間基地からは時折、未だなお同機が飛び立つ爆音が聞こえてくる。なお昨年、二〇〇六年は森有正没後三○年であった。様々な感慨が涌いてくる次第である。
 末尾ながら小文を草するに際して、日本の航空発達史関係、他の資料、諸文献を所沢市立図書館で参照出来た。ここに記して御礼を述べる次第である。
―完―  一読多謝
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後注一A―奥田鑛一郎著 『空の先駆者―徳川好敏』
東京[以下出版地、東京の表記略] 芙蓉書房 一九八六(昭和六一)年九月二四日、四六判 二六七頁 一、八○○円
一B―徳川好敏については、主要図書館設備のパソコンで「読売新聞」の記事を検索した。明治時代には三七件、大正時代には一一三件、昭和二〇年末までは三五件、昭和三五年までは九件のヒットで、記事一覧を経て、本文の一読が可能である(二〇〇七・平成一九年五月現在)。
後注二 ―関屋綾子著 『一本の樫の木―淀橋の家の人々』
日本基督教団出版局 一九八一(昭和五六)年一二月一○日、四六判 二五八頁 一、五○○円
後注三―右注一Bに同じく「読売新聞」の記事検索での人名ヒットの記事や、他に各種の『人名事典』による。
後注四―右注一Bに同じく、「読売新聞」の記事検索で、徳川篤守の関連記事ヒットは、明治時代は全五一件。爵位を返上して服役の後は、一民間人の扱いからか、人名検索ではヒットしない。
後注五―清水二郎著 『森明』
日本基督教団出版局 一九七五(昭和五○)年三月二五日四六判 二九八頁(人と思想シリーズ第二期)、一、五○○円
後注六―関屋綾子著 『風の翼はるかなる地平をめざして』
日本基督教団出版局 一九八五(昭和六○)年一二月一○日、四六判 二二四頁 一、三○○円
後注七―『日本基督教団・中渋谷教会五〇年史』
[同右教会]編、刊 一九六七(昭和四二)年一○月二九日、B5判 二五六頁[非売品?]
後注八―徳川好敏著 ”日本最古の操縦士―世界一周ジェット機の旅を終えて、航空五〇年の今昔感”
「文芸春秋」 文芸春秋新社、第三九巻第一号(一九六一・昭和三六年一月) 三一六〜三二二頁
後注九―・森有正著 『森有正全集 第四巻』 筑摩書房 一九七八(昭和五三)年二月二五日 以下省略
・森有正著『森有正全集第一三巻』 筑摩書房 一九八一(昭和五六)年一月二五日 以下省略
・[森有正著]『森有正対話篇T』 筑摩書房 一九八二(昭和五七)年九月三○日、四六判 四三三頁 二、二○○円
後注一〇―参考ながら、この”日本人による日本の空での初飛行”については、奇しくも、本人・徳川好敏の甥、森有正のフランスに於ける教え子が、平成期に東京に事務所を開いてのち、日本で刊行された単行書と雑誌とで、フランス語文・日本語文併記で委細を紹介している。当資料の提供については、左記・クリスチャン・ポラック氏に多いにお世話になった。謝意を表したい。
・"La France, fondatrice de l'industrie aeronautique japonaise", par Christian POLAK.
『Soie et Lumieres: L'age d'or des echanges franco-japonais』, par Christian POLAK.
ed. par Chambre de Commerce et d'Industrie Francaise du Japon.
Tokio, Hachette Fujingaho, 2001.12. P.213-215. 【Chapitre 13: Du premier chantier naval au chasseur monoplane】
”フランス、日本の航空産業の基礎を築く”クリスチャン・ポラック著
『絹と光―日仏交流の黄金期』 同前著 在日フランス商工会議所・企画・編集
アシェット婦人画報社 二〇〇一(平成一三)年一二月
二一〇〜二一四頁【第一三章 造船所から単葉飛行機まで】欄
・"La Mission Militaire Francaise d'Aeronautique au Japon(1918-1920)", par Christian POLAK.
「FRANCE JAPON ECO」, pub. par La Chambre de Commerce et d'Industrie Francaise du Japon (CCIFJ: Tokio). No.101(Hiver, 2004) P.66-75. 【Histoire: Le Japon et l'aviation francaise】
”フランス遣日航空教育軍事使節団(大正七〜九年)”、クリスチャン・ポラック著
「フランス・ジャポン・エコー」[在日フランス商工会議所・刊] 
第一〇一号(二〇〇四年冬号) 六六〜七五頁 【日本とフランスの航空技術】欄
後注一一―森寛子(岩倉↓有馬↓森)の初婚時の子息とは、有馬頼寧(一八八四〜一九五七年。九州久留米の旧藩主の家系)である。社会運動家、国会議員。世俗的には競馬の”有馬記念レース”の創設者として有名。小説家・有馬頼義の父でもある。
後注一二―森有正の年譜事項、他周辺事情については、手元の拙篇稿から転用した。
『森有正書誌・資料研究』[再編稿] 恵光院白編、
所沢 編者刊・私家版、二〇〇六(平成一八)年一〇月・再編 約五〇〇頁 同コピー製本

以 上


注―拙文は一九八八(昭和六三)年頃素稿をしたため、以後随時、調査、補訂加除につとめていたが、二〇〇六(平成一八)年春より、新資料等を加えて大幅に改稿し、完成したものである。
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二足歩行

井上 如

 年がら年中ウオーキングに明け暮れていると、上半身よりは下半身、それも一番下の足の裏に関心が偏る。反対の、一番空に近い頭の方は、中身もカラッポ、外から叩いてみても、スが入ったというか、スイカで言えばタナオチした、いかにも軽やかな音がするからやりきれないが、それだけ足にかかる荷重が減ると思い、諦めることにしている。
 ヒトには2本しか足が無くて学術的にはbipedに分類される。一方やたらと足がたくさんあるゲジやムカデのような生き物もいて嫌われるが、ゲジとムカデじゃ嫌われる理由が違う。ムカデは齧られると痛いし赤く腫れる。だいぶ昔のこと、富士吉田のさる御師が取り仕切る富士講に、ツテを頼って参加させてもらって、山開きに間に合うように江戸鉄砲州から歩き始めたことがある。総勢20名ほどだったと思う。初日は甲州道中調布泊まり、二日目は小仏峠を越えて寂れ果てた底沢と言うところの温泉宿に泊まったが、そこで一人朝早く目を覚ましたので散歩に出ようとしたら、今まで見たことも無いような巨大なムカデが枕元にいた。致命傷を与え得るような獲物が手元に無いままに取り逃がした。寝ている連中を起こして大捕り物をおっぱじめるのもはばかられたのでそのままにしたが、さいわい誰も齧られなかったからいいようなものの、そのことが今でも気がかりだ。
 ムカデの大きさで日本史上最大と思われるのは、琵琶湖の東岸に聳え、新幹線の車窓からも遮るものなく眺められる独峰、別名、近江富士と呼ばれる秀麗な三上山(432m)を、昔々七巻き半取り巻いた大ムカデがいた。さいわいそれは俵藤太という豪傑が見事に退治した。たいがいの人はこの話を聞くとその大きさにびっくりするが、七巻き半というのは鉢巻よりちょっと短いというオチのついたこれは昔話の世界のこと。文章は注意深く読まなくちゃいけない。大人のムカデも子供のムカデも足の数は同じだが、大人のは前述のように齧られると痛いし跡が腫れるから嫌われる。
 一方ゲジは、人を舐めこそすれ齧ったりはしないが、別段呼んだわけでもないのに人の家に無断で入り込んで、ひょいと見上げる天井の角っこで、そのまた長たらしい足を踏ん張っている誇らしげな様子はどうだろう。ところがたとえばヤスデは、小さな身体の下にたくさんの短い足を恥ずかしそうに隠したままで、それらを巧みに後ろから前へ順送りして、まるで郊外を走るローカル線のワンマンカーを遠くから眺めるように長閑に進んでゆく。さらに海岸の砂の中にこれまた恥ずかしそうに隠れているゴカイなどは、足の数だけからすればゲジ・ムカデもその足元にも及ばないが、釣の餌として寸断されて人様の役に立つ。だからたくさんの足の数の評価も相対的なものだ。みずからの多足を恥ずかしいと思うかその逆か、あるいはまた人に危害を加えるか身を八つ裂きにされても人様の役に立たんとするかで評価は異なる。また蛇は、解剖学的な痕跡はともかく足は一本も無いのに、また生活態度も慎ましやかにしているのに嫌われる。これにはまた別の説明が必要だろう。
 ヒトはbipedだが、ムカデはcentipedeで「百足」と書くのは直訳かどうか、とにかくヒトの50倍足がある。ヤスデはmillipedeだからヒトの500倍だが前述のように恥を知る生き物だから、たぶんそのせいだろう、足の数が多すぎることへの毀誉褒貶はムカデに集中するようである。3年前、太平洋から日本海まで歩く塩の道ウオークの催しの一つとして、掛川市でシンポジウムが開かれた時、パネルに引っ張り出されたことがある。司会の掛川市長が筆者に、いつごろから歩き始めたか、また何歳まで生きるつもりかと聞くので、”生まれるとき母親の胎内から自分で歩いて出てきた。それ以来歩いていて、今後120歳になるまで歩いてから死ぬつもりだ。生まれる時は足弱で臍の緒が足に絡まって転んだが、死ぬ時は自分でチャンと桶の蓋を開けて入るつもりでいる。”と答えた。それに対して司会者は何と思ったか、”ムカデも転ぶ”というたとえを出して討論をことのほか盛り上げた。「も」と言う以上、足の数が多ければ多いほど転ばないということが前提にあるが、実際に何百キロも二本足で歩いていてどうかとこともあろうに聞くのである。
ムカデは足の数が多すぎて自分でも困るだろうが、人にも迷惑が及ぶ。お稲荷さんの遣いはキツネだが毘沙門天の遣いはムカデだそうだ。あるとき毘沙門天が家来のムカデに他所へ使いに行くように命じて、しばらくして玄関に出てみると、先ほどのムカデがまだ何かごそごそやっている。”なんだ、まだそこにいたのか、何をぐずぐずしているんだ”と叱ったところ、ムカデ曰く”ヘイ、いま草鞋を履いてますんで”と答えたという。
 John Hillabyといえば、長距離ウオークの世界では知らぬ人はない、世界で5本の指に入るウオーカーだが、”何故歩くのか?”と聞かれた時の答えをやはりムカデを引き合いに出して次のように書いている―曰く「歩き出すときにいったい(左右セットになった)どの足から歩き出すのかネ、とある人がムカデに尋ねたという昔話がある。この質問にはムカデも驚いて、すっかり混乱してしまって動くことが出来なかったという。私(John Hillaby)が何故歩くのかと聞かれて答えようとした時もこれと同じような困惑を感じた」と言う。Hillabyは英国人だが、その同じ英国人の登山家マロリーが”何故山に登るのか?”と聞かれて"Because it is there"と答えた話は知らぬ者とて無いほど有名で、さすが英国人は違う。ついでながら私は”何故歩くのか?”と聞かれたときは”バカだからじゃないですか”と答えることにしている。相手の困惑顔はともかく、そこで対話がプッツンとなるのがありがたい。図書館の世界とウォーキングの世界とは両立しないから、二足の草鞋を履くことはせずに図書館から2本とも足を洗ったが、bipedのおかげで簡単にオサラバすることができたのはせめてもの幸いだった。
 二足歩行について書くつもりが序論で躓いた。本当は、前号の「ふぉーらむ」に続いて、年を取らない秘訣として一本足で立つ練習がことのほか有効だと言うことを書くつもりだった。ツルやフラミンゴは2本あるうちの1本は恥ずかしそうに羽根の下に隠して1本足で立っている。そのツルの平均寿命が一千年とされるのは何故か、その理由を発見したのでそれについて書くつもりだったのだが。

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後記
 創刊号はおそるおそる初めの一歩を踏んだ感じでした。2号もまだよちよち歩き。3号は「同人誌は3号まで、これで終わり」と、さっぱりしたものでしたが、今4号となると、同人誌を脱けた黒光りする柱のような文体の集合と相成りました。皆様、ご感想はいかがでしょう。
 制作する方も全て手作りで、本作りはかくあるべしと応援しています。
この先、この束縛のない「ふぉーらむ」の知性はどこへ行くのでしょうか。読者の皆様の寄稿、いつでも歓迎しています。(森本)

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